元宗 王?
高麗
第24代国王
王朝高麗
在位期間1260年6月1日 - 1274年7月23日
都城江都→開京
姓・諱王?(初名:?)
諡号忠敬順孝大王
廟号元宗
生年興定3年3月19日
(1219年4月5日)
没年至元11年6月18日
(1274年7月23日)
父高宗
母安恵王后
王后・王配静順王后(順敬太后)
慶昌宮主
妃嬪下記参照
子女下記参照
陵墓韶陵
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元宗
各種表記
ハングル:원종
漢字:元宗
発音:ウォンジョン
日本語読み:げんそう
ローマ字:Wonjong
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元宗(げんそう、1219年4月5日 - 1274年7月23日)は、第24代高麗王(在位:1260年 - 1274年)。姓は王、諱は?、初名は?、諡号は忠敬順孝大王。
太子のときに高麗がモンゴルに服属したため、人質としてモンゴルに赴くことになるが、1259年に父の高宗とモンゴル皇帝であったモンケが死去したため、帰国して江都で即位した(詳細はモンゴルの高麗侵攻を参照)。その後、帝位争いの末に即位したクビライに臣従して、国王の権力強化と親モンゴル政策を採る。
ところが、この親モンゴル政策に重臣はこぞって反発し、元宗は一時廃位されかけたが(王?の項参照)、モンゴルの力を借りて重臣たちの排除を図る。この時に100年ほど続いた高麗の武臣政権に終止符が打たれた。1270年には開京への還都を決行した。
還都に伴い反モンゴルの姿勢をとるゲリラ集団・三別抄の解散を図ったが、逆に三別抄は王の弱腰政策に怒り、高麗に対してまで反乱を起こさせることとなった。さらにはモンゴルから日本遠征の大規模負担を負わされて臣民に重税を強いることとなるなど、失政を続けた。
1274年、文永の役直前に病死した。
家族
静順王后金氏(順敬太后)
忠烈王
慶昌宮主柳氏(新安公 王?の娘)
始陽侯 王?
順安公 王j
慶安宮主
咸寧宮主
表
話
編
歴
高麗王(第24代:1259年 - 1274年)
高麗王
太祖918-943 / 恵宗943-945 / 定宗945-949 / 光宗949-975 / 景宗975-981 / 成宗981-997 / 穆宗997-1009 / 顕宗1009-1031 / 徳宗1031-1034 / 靖宗1034-1046 / 文宗1046-1083 / 順宗1083 / 宣宗1083-1094 / 献宗1094-1095 / 粛宗1095-1105 / 睿宗1105-1122 / 仁宗1122-1146 / 毅宗1146-1170 / 明宗1170-1197 / 神宗1197-1204 / 熙宗1204-1211 / 康宗1211-1213 / 高宗1213-1259 / 元宗1259-1274 / 忠烈王1274-1298 / 忠宣王1298 / 忠烈王(復位)1298-1308 / 忠宣王(復位)1308-1313 / 忠粛王1313-1330 / 忠恵王1330-1332 / 忠粛王(復位)1332-1339 / 忠恵王(復位)1339-1344 / 忠穆王1344-1348 / 忠定王1349-1351 / 恭愍王1351-1374 / ?王1374-1388 / 昌王1388-1389 / 恭譲王1389-1392 /
追封王
国祖 ? 懿祖 ? 世祖 ? 戴宗 ? 安宗 ? 英宗
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