この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "元和" 日本
元和(げんな)は、日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。 改元は本来朝廷の権限によるところのものであったが、家康が定めた禁中並公家諸法度第8条により「改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし」とされ、江戸幕府がその権限に介入する事になった。同法度の施行は元和改元の4日後ではあったが、その趣旨については既に朝廷側に通告されており、当然第8条の規定の事も朝廷側に伝えられていた。 だが、この時小槻孝亮らによって勘申された複数の案では、以上の事情にもかかわらず、新しい法度の規定に適合した候補は従来から度々候補に挙げられながら悉く外されてきた(言わば「当て馬」である)「天保」(江戸時代後期になって採用)以外は、この「元和」のみであった。また、「元和」はこれまで候補に挙げられたことがないのに初めての勘申で採用されている。このため、実際の起草者は幕府側の人物であったとの噂が立てられた。これが一部公家からの反発を招き、この年号が、前後の元号に比べ短期間だった理由の一つとも言われている。また、禁中並公家諸法度第8条には「但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事」とも書かれており、中国の元号がそのまま新しい元号とされたのは元和のみで、以降は伝統的な改元手続によって決定された元号を幕府が承認して日本全国に通知する方式が取られた[1][2]。 改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は、9世紀の平安時代から16世紀の戦国時代まで断続的に続いた、日本列島における戦争状態の終わりと平和の始まりを意味する。
改元
慶長20年7月13日(グレゴリオ暦1615年9月5日) 後水尾天皇の即位と戦乱(大坂の陣(大坂の役))などの災異のため改元
元和10年2月30日(グレゴリオ暦1624年4月17日) 寛永に改元
出典
元和年間の出来事
元年
3月15日 大坂夏の陣:豊臣氏の滅亡。元和偃武。
7月 武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定される。
2年
徳川家康死去。
松平忠輝が改易される。イギリス船、オランダ船の貿易港を平戸と長崎に限定する。
5年
福島正則が改易される。大坂城代が設置される。紀州徳川家が成立する。
6年
猿楽(現・能楽)シテ方の名手喜多七太夫長能が金剛座より独立し、喜多流を創設。
江戸城の本丸、北丸
8年
本多正純が改易される。
8月5日、長崎で元和の大殉教。
9年
7月 徳川家光が3代将軍に就任する。大奥法度が定められる。松平忠直が改易される。
10年
3月24日 禁教問題でスペイン船の来航を禁止する。
誕生
元年
11月29日 - 松平光長、松平忠直の子(+ 宝永4年)
月日不明 - 野中兼山、土佐藩家老(+ 寛文3年)
3年
3月13日 - 慈胤法親王、江戸初期の法親王、父は後陽成天皇(+ 元禄12年)
10月24日 - 板倉重矩、江戸初期の老中、京都所司代(+ 寛文13年)
10月28日 - 土佐光起、江戸時代初期の土佐派の絵師(+ 元禄4年)
月日不明 - 河村瑞賢、江戸時代初期の豪商(+ 元禄12年) 生年は異説あり
4年
5月29日 - 林鵞峰、江戸初期の儒学者、父は林羅山(+ 延宝8年)
12月9日 - 山崎闇斎、江戸初期の儒学者(+ 天和2年)
月日不明 - 菱川師宣、江戸初期の浮世絵師(+ 元禄7年) 生年は異説あり
5年
月日不明 - 熊沢蕃山 - 江戸初期の陽明学者(+ 元禄4年)
6年
11月1日 - 八条宮智忠親王、江戸初期の皇族、桂宮第2代当主(+ 寛文2年)
7年
6月4日 - 木下順庵、江戸初期の儒学者(+ 元禄12年)
11月18日 - 松平正信、江戸初期の大名、奏者番(+ 元禄5年)
月日不明 - 宝樹院、徳川家光の側室、徳川家綱の母(+ 承応元年)
月日不明 - 伊達宗勝、一関藩初代藩主、父は伊達政宗(+ 延宝7年)
月日不明 - 天草四郎、島原の乱の指導者(+ 寛永15年)