この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。
元号法
日本の法令
法令番号昭和54年法律第43号
種類憲法[1]
効力現行法
成立1979年6月6日
公布1979年6月12日
施行1979年6月12日
所管(総理府→)
内閣府
主な内容元号の制定について
関連法令内閣府設置法、国旗国歌法、皇室典範、天皇退位特例法
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元号法(げんごうほう、昭和54年法律第43号)は、日本の元号の制定について定めた日本の法律。
1979年(昭和54年)6月6日に第87回国会で成立、同月12日に公布・即日施行(附則第1項)。内閣府本府が所管[2][3]。
元号法以前の元号は天皇が定めるものだったが、元号法以後は内閣が政令により定めるものとなった(平安時代以後公卿が改元を主導し、江戸時代には徳川幕府が事前に選定したが、いずれの場合も最終的には天皇が定めるものだった)[4]。「昭和」の元号はこの法律の本則第1項の規定に基づき定められたものとされた(附則第2項)。「平成」の元号は元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)により、「令和」の元号は元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)により定められた。
日本国内での元号の使用を法的に強制するものではない[5][6][注 1]。 本則は次の2項をもって構成される。第2項は一世一元の制と呼ばれる。附則も2項ある。 附則 本則は、項番号を除き、31字である。これは、 記名ノ国債ヲ目的トスル質権ノ設定ニ関スル法律(明治37年法律第17号)の26字@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}につぐ短いものである[要出典]。 明治憲法下においては、元号に関する規定は旧皇室典範第12条や登極令に明記されており、所管庁も内務省ではなく宮内省であった。 現行の日本国憲法(昭和憲法)公布直後の1946年(昭和21年)11月8日、第1次吉田内閣において元号法案が閣議決定されたものの、内閣総理大臣の吉田茂が同月19日、撤回を命じた[10]。この案は後の元号法とほぼ同じ内容だったが、第二次世界大戦後の日本の降伏に伴い日本を占領統治していたGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーの反対にあって頓挫したと言われる[11][12]。その後、法律ではなく内閣告示 1947年(昭和22年)、昭和憲法の施行と共に現皇室典範が制定される際に条文が消失し、法的根拠がなくなった[14][注 2]。しかし、その後も国会・政府・裁判所の公的文書、民間の新聞等で慣例的に[注 3]元号による年号表記が用いられた。行政の様式中の年月日の欄に「昭和」が含まれるなど、行政が元号使用を勧奨するような実態があった[19]。 1950年(昭和25年)2月28日の参議院文部委員会での公聴会では登壇した有識者のうち8割が制度廃止を支持した[20]。 日本学術会議は1950年5月に政府に対し「元号廃止 西暦採用について」の申し入れを行った[21][22]。 1968年(昭和43年)、「明治100年」を機に、政府内で「国旗、国歌」と共に「元号法」を定める機運が高まり内閣法制局が「一世一元とすること」を骨子に検討を始めたが[23]、「現代に至っても元号を使用し続けているのは日本だけである」として「西暦に統一すべし」との論も強かった[23]。 内閣府政府広報室の年号(元号)制度の各年の世論調査の結果S49 (1974)
構成
第1項:元号は、政令で定める。
第2項:元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
第1項:この法律は、公布の日から施行する。
第2項:昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
背景
あった方がよい57.556.858.9
どちらかといえばあった方がよい22.518.919.5
どちらかといえば廃止した方がよい02.802.603.3
廃止した方がよい02.103.203.4
どちらでもよい12.015.711.4
わからない03.002.803.5
昭和天皇の高齢化に伴い、昭和天皇が崩御した後にも元号を使い続けるかどうかが注目されるようになった[24]。1976年(昭和51年)の世論調査で、国民の87.5%が元号を普段使用していると回答した[25]。
政府が民間委託した世論調査では、1974年(昭和49年)から1977年(昭和52年)の間に、元号存続派が一貫して多数であったものの、存続派が減少し、廃止派が増加した(添付表参照)。
日本社会党は1977年(昭和52年)1月、「元号は昭和限り、以降は西暦」とする党見解を決定し、元号問題が保守・革新の間の対立事項となる[26][27]。自民党側としては、当時、衆議院内閣委員会での優勢を覆されかねないという懸念があり、その前に法制化を押し切ろうとする思惑があったのではないかと言われる[27]。野党のうち公明党・民社党・新自由クラブは自民党と同じく賛成の立場をとった[28]。