優勝内国産馬連合競走
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優勝内国産馬連合競走(1911年)
競馬場東京競馬場(
目黒競馬場)(1911年)
創設1911年
距離芝2マイル(約3200メートル)→3200メートル
賞金1着賞金3,000円(1911年)

出走条件前季の各競馬倶楽部の出走新馬かつ優勝戦の1、2着馬
負担重量馬齢
※牝馬は3ポンド減量(1928年以降は1キログラム)
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優勝内国産馬連合競走(ゆうしょうないこくさんばれんごうきょうそう)とは1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた日本の競馬の競走である。

当時の日本国内最高賞金の競走で、現在の天皇賞のルーツの一つである。
概要

優勝内国産馬連合競走[1][2][3][4]は、3200メートル(=約2マイル)で行なわれていたことから連合二哩(れんごうにまいる)や連合競走、あるいは単に連合とも通称されていた。

日本各地の競馬倶楽部のチャンピオンだけが一生に1回だけ出走できるという点で後に創設される東京優駿大競走(現・東京優駿(日本ダービー))の前身であり、春秋1回ずつ3200m(当時)で行なわれる「日本一の名馬決定戦」という点で後の天皇賞(1937年(昭和12年)秋以降の帝室御賞典)の前身である。
歴史
背景 - 国策競馬と馬券の禁止

明治後期に盛んになった競馬には「軍馬改良」という大義名分があった[1]。1899年(明治32年)の北清事変で日本馬が西洋列強のウマに著しく劣ることが明らかになり、1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治37年)の日露戦争でもそれが改善されていないことが問題となった[1]。そのため1906年(明治39年)に明治天皇勅令を発し、内閣馬政局を設けて馬産を推進することになった[1]

この1906年(明治39年)の秋に東京競馬会が東京競馬場(池上競馬場)で開催した競馬が大成功すると、すぐに日本各地に同様の競馬倶楽部が「雨後の筍のごとく[1]」乱立し、その数は200箇所以上にのぼった[1][4]。これらの中には運営に不正や不手際があったり営利主義に走るものが多く、あちこちで不正競馬に起因する騒動が起きて世間を騒がせることになった[4]

そもそも当時の法令では馬券の発売を許す根拠は無かった[1]。馬券を最初に発売したのは幕末から外国人が治外法権下で行っていた横浜競馬場だが、明治政府は長い間、これを事実上黙認してきた[1]。1906年(明治39年)に始まった各地の競馬も同様に「政府は馬券の発売を黙認する(黙許競馬)」ことで成り立っていた[1]。国会でもしばしば馬券は違法であると指摘する議員がいたが、軍馬育成の大義名分の前に黙殺されてきた。

1908年(明治41年)、社会の風潮が馬券の取り締まりに向かう中で、当時の第1次西園寺内閣から黙許を得て競馬が行われたのだが、7月に内閣が総辞職し、第2次桂内閣に変わった。この時入閣した岡部長職司法大臣は馬券反対派で、兵庫県で開催中の鳴尾競馬場へ官憲を派遣して馬券販売係を逮捕させた。ちょうどこの秋に実施される刑法大改定に合わせて、岡部司法大臣は競馬に対して強硬策をとり、陸軍を押し切って馬券の非合法として禁止することに成功した[1][4]。軍や競馬界を背景にもつ議員には、馬券禁止は政府の不法行為だと論陣を敷いたものもあり、1909年(明治42年)には馬券を合法とする法案が衆議院で可決されたが、貴族院の特別委員会で廃案とされてしまった[1]。この後、馬券が許可になるまでは長い年月がかかることになった[1]
創設 - 競馬不況と連合二哩創設

馬券の発売が禁止されるとすぐに、各地の競馬倶楽部は開催中止を余儀なくされ、次々と経営難に陥った[1][4]。一般に当時の競馬倶楽部は、希望者が一口500円などの出資金を収めて会員となり、これらを集めたものが運営に充てられていたが、それだけでは賞金には程遠いので、馬券の売上から賞金を捻出していた[1]。馬券がなければ賞金が出ず[注 1]、賞金がでなければ馬主は出走させないし出走できる見込みがなければ馬が売れないので、各地の馬産地は深刻な不況に見舞われることになった[4]

実際にこの時代には競走への出走する頭数が激減し、日本全体で1レースの平均出走頭数が2頭以下となった。つまり、ほとんどの競走では1頭しか馬が出走しないということになる。競馬開催の大義名分が軍馬改良であったのに1頭だけでの競走(単走)では馬の選別改良が進まないため、軍部を後ろ盾とする馬政局は競馬に補助金を出すことになった。この補助金で1911年(明治44年)秋に創設されたのが優勝内国産馬連合競走である[1]
成立 - 日本一の名馬決定戦

東京競馬場(目黒競馬場)で新たに創設された特殊競走「優勝内国産馬連合競走」は1着賞金3000円、2着1500円、3着500円で、当時の日本の競馬の最高賞金の大賞だった[1][2][注 2]。この頃の日本各地の競馬の賞金の年間総額は10万円(1910年(明治43年))で、1着賞金だけで年間の全賞金の3%に相当した[5]

当時の競走馬の価格が普通の抽籤馬で350円から400円、特別な優良馬で2000円程度であったが、この競走の創設によって産馬業界はにわかに活気付き、北海道では7?8万円で取引される馬が出るほどになった[1][2]。また、創設以来、民間による新興の小岩井農場の生産馬が5連覇を果たし、同牧場の血統の良さをアピールした。

この競走に出走するには高い条件をクリアしなければならなかった。この頃、日本各地の競馬会では春季・秋季の2回の開催を行っていた。優勝内国産馬連合競走に出走できるのは内国産(日本産)の牡馬か牝馬で(去勢馬は不可)、前季の新馬戦でデビューした馬で、新馬戦を勝った馬だけで争われる優勝戦で上位2着までに入ったものに限定されていた[1][2]。これにより、秋の目黒競馬場には日本各地の新チャンピオンが集まり、その中で最良の馬を決定する「日本一の名馬決定戦」となった[6]。この競走に出走し入着を果たした馬は全国に名声を轟かしたと伝えられる[7]


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