僧?
不詳 - 大業2年10月15日
(不詳 - 606年11月20日)
諡号鑒智禅師
尊称禅宗第三祖
宗派禅宗
師慧可
弟子道信
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僧?(そうさん、生年不詳(推定500年?505年頃) - 大業2年10月15日(606年11月20日))は、中国禅宗の三祖。「?」とは、「美しい珠」、「光り輝く宝玉(宝石)」のことである。唐の玄宗により鑒智禅師の諡を賜った。 『五灯会元』の一つ、『景徳伝灯録』第三巻に「三祖僧?大師悟道因縁」と呼ばれる物語が伝わっている。 東魏の天平2年(535年)に当時、居士で重い疾病を患っていた僧?が第二祖慧可と相まみえ会話を交えた。そして、ついに悟りに至った。その後すぐに、光福寺で具足戒を受け、それ以後、彼の疾病はことごとく良くなり、ともに祖師(達磨)に二年間あまり仕えた、という物語である。 その悟道に至った日は、同年(535年)3月18日であった。 禅の第二祖慧可と第三祖僧?に関わる記述は『続高僧伝』第21巻にある『唐?州双峰山釈道信伝』に、「すでに(伝)法を負っていることを聞き、それで いずことも知れぬ所から 向かい赴いて来た二僧が、舒州皖公山(安徽省安慶市潜山市)で修禅した」という趣旨の記述がある[1]。
略歴
(衣法:伝法の信を表す袈裟を与える事。禅では、師匠が弟子に対し、法を伝えた証に衣を授ける。伝衣は同時に伝法でもあることを意味する。)
以後、彼はすぐに舒州皖公山に隠居する。四度吹き荒れた三武一宗の法難の内の一つである、北周武帝(560年-578年)の廃仏政策の時代となり、司空山(安徽省安慶市岳西県)に隠居。居場所は常に定まっているという事は無かった。
そして、10年以上の年月に渡って、そのもとを訪れる者は無かった。
隋の開皇12年(592年)、14歳の沙弥道信は弟子入りに来て、言った。
道信「和尚様、何卒、慈悲たれ賜いて悟りへの法門をほどき与えたまへ。」
僧?「誰があなたを縛ったか?」
道信「縛った人はいません。」
僧?「では、今更 何を解くというのか?」
そこで道信は大悟した。
僧?は道信に「妙法蓮華経」の“会三帰一”理論と仏法理論を伝授。このことが道信に与えた影響は極めて大きかった。
開皇13年(593年)、慧可入滅。道信の弟子入りとほとんど、入れ違いのことだった。
道信は、修禅の労に服すこと九年、後吉州にて受戒。僧?は常に道信に玄々微妙たる禅の理、真髄を伝授し続けた。
時機成熟し以後、僧?は道信に衣法。
その時、道信が読んだ偈は次の如きものであったことが今に伝わっている。「花の種、これ田地 田畑にて 瑞々しい若花を大地より生ずる。もし、種を蒔く者がいなければ、花々に満ちていた大地は(これから)生じることもなく尽きてしまう(仏法もまた同じで、いまこそ 法をひろめなければならない)。」
羅浮山(広東省恵州市博羅県)に布教。道信は僧?の唯一の弟子で、僧?は彼に厚い期待を預けた。
二年後、僧?は、もとの舒州に帰着した。
多くの人々への説法後、大樹の下で言ったと言われる。
「生死のあり方は自由だ!(結跏趺坐して入滅される方も多い。しかし、私は今日立って歩み進むのだ!)」
樹枝に手をかけ、立ったまま僧?は臨終を迎えた。それは、隋の煬帝の大業2年(606年)のことだった。
後の世、唐の玄宗は.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}鑒智(がんち)禅師の諡を贈った。
著作
『信心銘』( 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:信心銘
僧?の伝記としては、独孤及
(? - 777年)が撰した「隋故鑒智禅師碑銘并序」が知られる。それより先、7世紀半ばに成立した道宣の『続高僧伝』では、法沖伝の文中に、慧可の弟子として?禅師があったことが記され、また、弁義(541年 - 606年)の伝中にも、僧?禅師が登場している(ただし、各書中「?」もしくは「僧?」という名の僧の専伝が立てられ多くの事が記された訳ではない)。第四祖道信の師を僧?とするのは、8世紀初期に成立した禅の灯史である『楞伽師資記』や『伝法宝紀』である。
「信心銘」の撰者を僧?に擬するのは、百丈懐海(749年 - 814年)であり、それ以前には遡り得ない。時代が遡るほど、僧?に関する伝記と呼べるようなものは少なくなる。
「菩提達磨を東伝の初祖とし、慧可を経て「東山法門」の人々に受け継がれた」とする禅の正系を強く結びつける上でも重要視されるのが、第三祖僧?である。
脚注・出典[脚注の使い方]^ 『続高僧伝』卷21「唐?州双峰山釈道信伝」“又有二僧 莫知何来 入舒州皖公山静修禅業 聞而往赴 便蒙受法”
参考資料
1982年杭州出土の煉瓦に刻まれた文字“大隋開皇十二年七月僧?大師隠化於舒之皖公山岫 結塔供養 道信為記”
関連項目
灯史 禅宗史書一覧
川島芳子 1978年まで生存説では、最後 正装して 特殊な方法で立ったまま亡くなっていたという。(杖を使ったという)
『弁慶の立ち往生』武蔵坊弁慶も立ったまま往生したという。
師:慧可禅宗弟子:道信
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