僧旻
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旻(みん、生年不明 - 白雉4年(653年)6月)は、飛鳥時代学僧
出自

中国系の渡来氏族[1]
経歴

推古天皇16年(608年遣隋使小野妹子に従って、高向玄理南淵請安らとともにへ渡り、24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)8月に日本に帰国。

その後、蘇我入鹿藤原鎌足らに「周易」を講じた。舒明天皇9年(637年)に流星が現れた時には天狗の吠え声と主張し、舒明天皇11年(639年)に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった。

皇極天皇4年(645年乙巳の変ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、大化5年(649年)高向玄理と八省百官の制を立案している。翌大化6年(650年)に穴戸(長門)国司草壁醜経から白いが献上されると、その祥瑞を説明したことにより、白雉改元された。のち病を得て、白雉4年(653年)5月に孝徳天皇の見舞いを受けたが、翌月没した。
本名に関する諸説

旻という名は縦書きの日文を1文字とみなした誤解であるとも考えられ、本当の名は日文である可能性もある[2]
脚注[脚注の使い方]^日本書紀』推古天皇16年9月11日条に「新漢人」(いまきのあやひと)との表現がある。
^ 坂本太郎(1967)「日本書紀の本文研究」『日本古典文学大系月報 第二期 最終回配本(日本書紀上)』岩波書店
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