備後
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備後国

■-備後国
■-山陽道
別称備州(びしゅう)[注 1]
所属山陽道
相当領域広島県東半分
諸元
国力上国
距離中国
数14郡65郷
国内主要施設
備後国府広島県府中市
備後国分寺広島県福山市
備後国分尼寺(推定)広島県福山市
一宮吉備津神社(広島県福山市)
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備後国(びんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。
「備後」の名称と由来

吉備国備前国(後に美作国も再分割)、備中国、備後国に三分して設けられ、藤原宮からでた木簡に「吉備後」と表記したものがある。平安時代の『和名類聚抄』は、備後国を「きびのみちのしりのくに」と読む。
領域

明治維新の直前の領域は、広島県府中市庄原市世羅郡神石郡の全域および福山市の大部分(大門町の一部を除く)、尾道市の大部分(瀬戸田町各町・因島洲江町・因島原町を除く)、三次市の大部分(秋町・粟屋町を除く)、三原市の一部(大和町萩原・大和町福田・大和町蔵宗・大和町篠・大和町上徳良・大和町下徳良および概ね円一町、宮沖、皆実、宮浦、頼兼、大畑町、八幡町垣内、久井町坂井原、久井町羽倉、久井町泉以東)、東広島市の一部(豊栄町飯田・豊栄町吉原)、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}岡山県笠岡市の一部(用之江の一部)[要出典]、島根県仁多郡奥出雲町の一部(八川字三井野)にあたる。
沿革

7世紀後半に、吉備国備前国(後に美作国も再分割)、備中国、備後国に三分して設けられた。

三次市の市街地の南丘陵に立地する下本谷遺跡は、三次郡郡家遺跡であり、広島県で唯一発掘調査によって確認されたものである。奈良時代後半から平安時代初期までに4回の改作が行われている。東西54メートル、南北114メートルの柵内に庁屋(ちょうのや)・副屋(そうのや)・向屋(むかいや)が設けられ、その南に倉庫群が建てられていた。遺跡の大部分が破壊されてしまっているが、他の郡家遺跡と共通するところが多い。

海岸部は瀬戸内海の中間点に位置し、鞆の浦福山市)や尾道尾道市)は重要な港として古代より栄え続けた。神護景雲2年(768年)に全国から9人の善行の者が選ばれ終身の田租が免ぜられる表彰を得た中に備後国葦田郡の人で網引公金村の名が見られる。8歳で父に代わって公務に就き父母に孝養を尽くして爵二級に叙されたとある。

江戸時代には、有力外様大名がひしめく山陽道に睨みをきかす意味で備後国南東部と備中国南西部の一部に備後福山藩が置かれ、初代の水野勝成をはじめとする有力譜代大名や徳川一門が藩主を務めた。尾道は安芸広島藩領の港町として栄えた。三原には広島藩の支城が設けられ代々広島藩筆頭家老の浅野家が城主を務めた。三次にも当初、広島藩の支藩があったが取り潰された。後に一部は豊前中津藩領となる。

水野福山藩が断絶後は現在の府中市北部や甲奴郡は幕府天領神石郡などの一部は豊前国中津藩領になった。

明治維新後の廃藩置県に伴って、備後国東南部に現在の福山市を県庁とする福山県が設立され、続いて隣接の倉敷県と統合されて現在の福山市を県庁とする深津県が設立されたが、短期間で県庁が現在の笠岡市に変更となり小田県へと改称した。1875年明治8年)には小田県岡山市に県庁を置く岡山県へ編入された。1876年(明治9年)に再び備後地方のみ分割され、広島県へと編入されたまま今日に至る。
近世以降の沿革

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(563村・315,090石余)。幕府領倉敷代官所が管轄。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。

御調郡(100村・39,680石余) - 安芸広島藩

甲奴郡(32村・15,576石余) - 幕府領、安芸広島藩、豊前中津藩


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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