岡山藩(おかやまはん)は、備前一国および備中の一部を領有した外様の大藩である。備前岡山藩、備前藩ともいう。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現・岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。 岡山城を築城したのは宇喜多秀家である。宇喜多氏は岡山城を居城にして戦国大名として成長し、豊臣家五大老を務めた。しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍方の主力となった秀家は改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し備前・美作の51万石を所領とした。ただ慶長7年10月18日(1602年12月1日)、秀秋は無嗣子で没したため小早川家は廃絶となった。備前岡山池田氏の家紋「備前蝶」 慶長8年(1603年)、姫路藩主・池田輝政の次男・忠継が28万石で岡山に入封し、ここに江戸期の大名である池田家の治世が始まる。慶長18年(1613年)には約10万石の加増を受け38万石となった。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城
略史
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5,000石で入封し、以後明治まで光政の家系(池田家宗家)が岡山藩を治めることとなった。このように池田氏(なかでも忠継・忠雄)が優遇された背景には、徳川家康の娘・督姫が池田輝政に嫁ぎ、忠継・忠雄がその子であったことが大きいとされる。
光政は東叡山寛永寺の開山者で家康時代からの将軍家側近有力者であった天海大僧正によって東照宮(玉井宮東照宮)を備前に勧請し、岡山城の鎮守とする願いを寛永20年(1643年)に将軍家に出し、東照宮造営の許可を翌年正保元年(1644年)に東叡山の同意の元、大老酒井讃岐守忠勝より正式な許可を得て、同年12月17日に落成した。これは日光東照宮が地方へ分社された全国で最初のものであった。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸初期の三名君として称されている。光政は陽明学者・熊沢蕃山を登用し、寛文9年(1669年)全国に先駆けて藩校「岡山学校(または国学)」を開校した。寛文10年(1670年)には、日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在国宝)も開いた。また土木面では津田永忠を登用し、干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年(1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末に9代藩主となった茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、鳥取藩池田慶徳や最後の将軍徳川慶喜の弟であった。このためか勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとり続けた。しかし戊辰戦争にいたって茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主の池田政詮(岡山藩主となり章政と改める)が藩主となり、岡山藩は倒幕の旗幟を鮮明にした。そうした中神戸事件が起こり、その対応に苦慮した。
明治4年(1871年)廃藩置県が行われ、岡山藩知事池田章政が免官となり、藩領は岡山県となった。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。 豊臣一門格 57万4,000石 (1582年 - 1600年) 外様 51万石 (1600年 - 1602年) 外様(準親藩) 28万石→38万石→31万5,000石 (1603年 - 1632年)
江戸時代以前の岡山城主
宇喜多家
秀家
岡山城築城・城下町建設者で、初代岡山城主。
歴代藩主
小早川家
秀秋/秀詮
なお、幕藩体制の始まりには諸説あるため、秀秋没後の年を幕藩体制の始まりとする説では、秀秋は藩主として扱わず幕藩体制以前の岡山城主として扱うこともある。
池田家(別家)
忠継 28万石 → 38万石
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