傅友徳
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傅 友徳(ふ ゆうとく、? - 洪武27年11月29日[1]1394年12月22日))は、初の軍人。単州?山県の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。

姓名傅友徳
画像
時代元代 - 明代
生没年生年不詳 - 1394年洪武27年)
字・別名-
本貫・出身地単州?山県
職官雄武衛指揮使(明)→江淮行省参知政事

→栄禄大夫・柱国・同知大都督府事
→征虜前将軍→征西副将軍→征南将軍
→太子太師
爵位潁川侯(明)→潁国公
諡号-
陣営・所属李喜喜→明玉珍陳友諒朱元璋
家族・一族子 : 傅忠

生涯
主を幾度となく変える

祖先は宿州に住んでいたが、後に?山へ移り住んだ。

劉福通の配下の李喜喜に従い、成都に入った。李喜喜が破れ、明玉珍に従った。明玉珍は傅友徳を重く用いなかったため、武昌へ向かい、陳友諒に従った。
朱元璋に仕える

至正21年(1361年)8月、朱元璋が江州を攻め、小孤山に至った。傅友徳は丁普郎と共に小孤山を守っていた。丁普郎と共に軍を率いて、朱元璋に降った[2]。朱元璋は傅友徳と話し、彼を珍しい人物と思い、将として用いることにした。

至正23年(1363年)3月、常遇春に従い、安豊を救援し、廬州を攻略。7月、?陽湖の戦いに参加し、軽船で陳友諒軍の先鋒を破った。いくつかの戦傷を負ったが、ひるまずに戦った。諸将と共に江口で伏兵として戦い、陳友諒を戦死させた。

至正24年(1364年)2月、武昌を攻めた。武昌城の東南にある高冠山は城中の様子を見ることができた。敵軍がこの山を占拠していた。諸将は高冠山の敵軍が煩わしく思った。傅友徳は数百人を率い、一気に高冠山を奪ってしまった。流れ矢が頬を貫いても気にせず戦った。武昌を攻略し、雄武衛指揮使を授けられた。7月、徐達に従い、廬州を攻略した。別の武将を派遣し、峡州衡州襄陽を攻略した。安陸を攻めて九つの傷を負うも、敵を破り、任亮を捕らえた。

至正25年(1365年)10月、大軍を率いて淮東を攻めた。張士誠の援軍を馬騾港で破り、軍船数千を得た。元の将の竹貞を安豊で破った。陸聚と共に徐州を守った。

至正27年(1367年)2月、ココ・テムルが左丞の李二を遣わし、徐州を攻めてきた。傅友徳は味方が寡兵であるので、城を固く守って戦わなかった。敵軍は陵子村に駐屯し、周囲の掠奪を始めた。その間に3千の兵に河を遡らせ、石州に至った。石州から進軍し、敵軍を攻撃した。李二は武将の韓乙に迎撃を命じた。傅友徳は槊を奮って武将の韓乙を討ち取り、敵軍を破った。再び李二が攻めてきて、傅友徳は城を出て、城外に陣を張った。兵に武器を持って臥せておき、戦鼓を聞いたらすぐに起き上がって、攻撃するように命令した。李二が戦場に至ると戦鼓を鳴らし、兵士は素早く起き上がり、敵軍の前鋒に攻撃した。敵軍は壊滅し、多くの溺死者を出した。李二を捕らえ、将兵2百余・馬5百を得た。応天府に帰還し、江淮行省参知政事に進んだ。その際、朱元璋は鼓吹を奏でさせ屋敷まで帰らせた。
元・夏の勢力と戦う

至正27年(1367年)10月、徐達に従い、北伐に参加した。徐達に対し「高祖項羽と戦っている最中、山東で彭越が項羽軍の側背を襲った。今度の戦いは山東の平定から始めるべきだ」と言った。11月、沂州青州を攻略した。12月、?州を攻略した。元の丞相の也速が援軍にやってきたので、傅友徳は騎兵で敵を誘引し、伏兵で敵軍を破った。

洪武元年(1368年)2月、東昌を攻略。3月に?梁、4月に洛陽を攻略し、各地の山寨を占拠した。福昌寨を攻略した際、元の右丞の潘瑪勒を降した。5月、凌青塞・黒山塞を攻略した。7月、渡河して薛顕と共に衛輝彰徳を攻略し、臨清に至り、捕らえていた元の武将の李宝臣・都事の張処仁を道案内として用いた。陸路で徳州滄州を攻略した。8月、元の首都の大都は既に攻略されたが、さらに北方の様子を調べるために傅友徳は盧溝橋を守った。大同を攻略した後、9月に保定真定へ戻り、真定を守った。12月、山西を攻め、太原を攻略した。ココ・テムルが自ら大軍を率いて攻めてきた。傅友徳は50騎を率いてココ・テムルの陣営に夜襲を仕掛けた。ココ・テムル軍は逃げ出し、土門関まで追撃した。その結果、多くの捕虜や軍馬を得た。薛顕と共に賀宗哲を石州で破った。

洪武2年(1369年)1月、朔州の守りについた。3月、鳳州を攻略し、指揮の張能に守りを任せた。5月、徐達と合流して慶陽の東側を包囲した。7月、徐達・馮勝と協議し、薛顕と共に霊州に駐屯して援軍を断ったため、慶陽を攻略することができた。賀宗哲が六盤山に逃れたことを知った徐達は、顧時・薛顕と共に追撃を命じた。12月、帰還し、恩賞として白金文綺を賜った。

洪武3年(1370年)4月、徐達に従い、ココ・テムルを破った。5月、前鋒としてに向かい、略陽関を奪った。さらに漢中を攻略した。しかし後続が続かず、西安へ帰還した。7月、夏の武将の呉友仁が漢中へ攻め込んだ。傅友徳は3千騎を率いて救援に駆けつけ、夜襲で木槽関・斗山寨・門山塞を攻めた。命令して兵士に10の篝火を持たせ、山上で布を燃やさせた。これを見た敵軍は驚き、逃走した。11月、論功により、開国輔運推誠宣力武臣を授けられ、栄禄大夫・柱国・同知大都督府事となり、潁川侯に封ぜられ、食禄1千5百石を賜った。
夏国討伐

洪武4年(1371年)1月、征虜前将軍として、征西将軍の湯和と分道して夏討伐に向かった。顧時を副将の呉復らを従えて、秦州平涼方面から出撃した。朱元璋は「敵の精鋭は東側に集中している。敵は金牛で我が軍を阻むだろう。そこで不意をついて、階州文州を衝けば、敵は自壊するだろう。兵は神速を貴ぶという。機会を逃してはならない」と諭した。

3月、傅友徳は諸軍を結集して金牛を攻めると噂を流した。そして、5千の精鋭軍を前鋒とし、本軍はそれに続いて、密かに陳倉から昼夜問わず進軍した。

4月、守将の丁世真を破り、武将18人を捕らえ、階州を攻略した。白龍江の橋が敵軍により落とされていたので、橋を修復して進軍した。文州の五里関に至り、丁世真は兵を集め、抵抗の構えをとった。汪興祖が飛石に当たって戦死すると、傅友徳は大いに怒り、激しい攻撃を加えた。丁世真は数騎で敗走し、文州を攻略した。青川果陽を攻略し、指揮の潘忠を守りにつかせた。江油彰明の2県を攻略し、白水江を渡り、綿州へ向かった。精鋭を選び、都督僉事の藍玉に率いさせて夜襲を仕掛けた。綿州の守将の向大亨は驚き、軍は混乱した。傅友徳もこれに続いて攻撃した。にわかに大風が起こり、諸軍はこれに乗じて攻め立てたため、向大亨軍は大敗して、漢州へ敗走し、綿州を攻略した。

5月、漢州攻略に向かった。このとき、漢江は増水して渡河は不可能だった。そこで軍船を軍船を作って漢州に至った。瞿塘の友軍を助けるため、削った木材に階州・文州・綿州は占領されたと書いて、漢江に投げ入れた。これを見た敵軍は散りぢりになった。傅友徳が階州・文州を攻略したことを知った夏の丞相の戴寿は漢州へ援軍に向かった。城下で守将の向大亨を破った後、敵の援軍が迫っていることを知った明の諸将は「援軍は遠くからやってきている。向大亨が敗れたと知れば、士気は落ちてしまう。何と無能なことだ」と言った。言葉どおり、援軍を迎え撃って大勝した。

6月、漢州を攻略。向大亨は成都に敗走し、顧時を漢州の守りにつかせた。文州が丁世真によって陥落すると、傅友徳は直ちに文州へ向かった。丁世真は逃走し、軍を再編して秦州を攻めた。傅友徳が救援に向かい、丁世真を破った。丁世真は敗走後、梓潼で部下に暗殺された。

7月、進軍して成都を囲んだ。戴寿・向大亨らは城を出て、象兵を使って戦った。傅友徳は強弩火器で迎え撃たせた。体に流れ矢を受けても退かず、将兵は死にものぐるいで戦った。象が暴走し、敵軍は多くの死者を出した。明昇は降伏を決意し、戴寿はこれを聞いて、傅友徳の軍門に降った。傅友徳は成都に入城した。朱亮祖と合流し、降伏に従わない州県を攻めた。崇慶州知州の尹善清と戦い、これを破り、尹善清を斬った。判官の王桂華は父老を率いて降伏した。

8月、周徳興と合流して、保寧を攻略して呉友仁を捕らえた。これを応天府に送り、夏を平定した。その後、保寧の守りについた。夏平定後、朱元璋は平蜀文として旗に『傅一廖二』との語を書き記した。朱元璋は夏討伐において、傅友徳を勲功第一、廖永忠を勲功第二とした。

12月、帰還後に白金250両・綵段20表を賜った。
元の残存勢力と戦う

洪武5年(1372年)1月、征西副将軍として馮勝に従い、3月、5千騎を率いて涼州で敵軍を破り、追撃して永昌に至った。永昌で元の岐王桑哥朶児只班を破り、馬・牛・羊を10万余を捕らえた。6月、掃林山に至り、馮勝と合流して甘粛を攻略し、元の不花を射殺し、元の太尉の鎖納児らを降伏させた。瓜州沙州に至り、金銀や家畜2万を獲って帰還した。このとき、明軍は三道に分かれて戦ったが、傅友徳は全てに勝利した。しかし、主将の馮勝は賞を与えなかった。

洪武6年(1373年)6月、雁門を出て前鋒として、元の平章のケ孛羅帖木児を捕らえた。


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