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やノートページでの議論にご協力ください。偽書(ぎしょ、英: imposture)とは、すでに滅んで伝存しない作品、あるいは元々存在していない作品を原本のように内容を偽って作成した本のこと。「仮託書」(かたくしょ、かりたくしょ)ともいう。それに対して、刊本や奥書などを偽造したり、蔵書印記を偽造して捺印したりして、古書としての価値を高めようとしたものは区別され「偽造書」「偽本」「贋本」(がんぽん)と呼ばれる[1][2]。 主として歴史学において、その文献の史的側面が問題とされる場合に用いられる語であるが、概念そのものは美術的な書の贋作も含んでいる[注 1]。書物や古文書それ自体や内容の真偽などを検証する作業を史料批判と呼ぶ[3]。単に内容に虚偽を含むだけの文書は偽書と呼ばれることはない。「創作」、「物語」、「小説」、「神話」、および「伝説」を参照 本項目では、偽書全般について記述する。なお、例示には偽書として評価の定まっているもののほか、「専門家によって偽書の疑いを提示されたことがあるもの」も含む。偽書としての疑いの程度やその根拠については、リンクされている各記事を参照のこと。 偽文書や偽書の作成がなされた事情は、その当時の歴史的背景に由来することが多く、学問上、完全に無意味とされる物は後述のオカルト的・詐欺的な例外を除けば、むしろ少ない。当時の為政者や作者(と推定される人物)の心理面やその影響力を考察する点では歴史学上の価値もある。また民俗学などで民間信仰の変遷を辿る際には手がかりになることもある。 意図した人為の反映されがちな文献資料 (歴史学)の欠点を補うため考古学的結果(考古資料)に照らし合わせることも行われる。また、歴史学と民俗学を繋ぐものとして重視する学者も存在する[注 2]。 一方で偽書の存在により、後年の郷土史研究や町おこしなどにおいて、重大な支障になっているケースもある[4][5]。 日本においては偽書目録は少なく、速見行道の『偽書叢』3巻(嘉永6年、早稲田大学蔵)と伊勢貞丈撰『偽撰の書目』が存在する程度である[6]。 以下概説する。 歴史書においては直ちに真偽を判断できない難しさもあって偽書とされている史料が多い。真偽の判定にあたっては、他文献との内容の相違や矛盾よりも、その書の成立時期について主張されている場合が多く、その時期を検証することが史料批判の出発点となる。 『先代旧事本紀』は、室町時代までは記紀と並ぶ「三部の本書」としての扱いを受けていた。しかし、序文の『日本書紀』に先行する7世紀の編纂である旨の記述が、江戸時代になると『天皇記』『国記』に相当する記述を装っているとされ、既に国学者の多田義俊、伊勢貞丈らが偽書と断じている。成立は7世紀よりもかなり下った平安時代初期(9世紀頃)と見られる。しかし後世では、序文の真偽はさておいても記述には『記紀』や『古語拾遺』にも見られない独自の伝承や神名、特に古代の大和王権を研究する上で重要な『国造本紀』の国造関係史料も見られ、これに史料価値を認める研究者も数多い。 また『先代旧事本紀』と並んで『古事記』についても偽書であるとする説がある[注 4]。『旧事本紀』と同じく序文の内容について不審な点があり、特に編纂の勅命が下された年号の記述がないことや、官位・氏姓に問題のある稗田阿礼の非実在論に焦点があてられている。 他にも古史古伝では明らかに偽書であることが判明している史料が多くある。「『古事記』より以前の歴史書」とのふれ込みで話題となった竹内文書は昭和期に入ってから竹内巨麿が世に広めたもので、日本国外の近代都市名の記述があるなどして偽書と断じられている。しかし、『東日流外三郡誌』のように20世紀の語彙が含まれるものもありながら、史料批判を受けることなく地元の市史に用いられたという例もある。これ以外にも、偽書や偽文書が市町村史の編纂や史跡整備に使われて権威を持ってしまう例は多い[3](類例には『浜松城記』がある)。 国家の命運をはるか未来まで予言したという聖徳太子による『未来記』なる偽書は古くから流布し、『太平記』には楠木正成が味方の士気を鼓舞するため、後醍醐天皇からこの書の閲覧を許されたとの記述がある。 江戸時代には諸侯の先祖を飾るため軍記物の偽作が横行し、系図が乱れた。佐々木氏郷(沢田源内) は、『江源武鑑』、大系図、倭論語の版本その他、写本の偽書を流行させた。歴史学者の乃至政彦によれば、有名な関ヶ原の戦いに関しても江戸幕府の正史『当代記』では150文字程度しか記載がなく、一般的に知られている戦いのエピソードは『関ヶ原始末記』『関原軍記大成』などの軍記物によるものが多く、軍記物『関ヶ原始末記』では正史『当代記』の数倍の記載があり、『関ヶ原始末記』を増補した『関原軍記大成』では更に数倍の記載があり、多くは先祖を語る武勇伝と講談師の創作であるという[8]。 『三河後風土記』は平岩主計親吉の、『徳川歴代』は大須賀康高の著書と伝わるが、実際の著者は不明である。その横行は伊勢貞丈の『安斎随筆』(1784年)、小宮山昌秀(楓軒)の『偽書考』『楓軒偶記』に記載されている。『三河後風土記』については、これを校正した『改正三河後風土記』(成島司直著)で実は沢田源内が著者だという説が出ている。 編纂資料とは別に古文書においては家系の由緒の装飾などを目的に作成された偽文書の存在が指摘される。偽文書は真文書の筆跡や印判などを精巧に再現したものから真文書の一部を改変したものまで多様なものが存在し、古文書学においては真蹟が残っているかそれとも写ししか残っていないか、真文書と偽文書の真贋の見分け方や偽文書が作成された背景事情が問題視される。 例えば江戸時代の甲斐国(現在の山梨県)では、有力農民が、祖先を、同地を支配した戦国大名武田信玄に連ねて家格上昇を意図した偽文書が盛んにつくられた[3]。また、川中島の戦い関係の武田方の古文書はほとんどすべてが歴史学的には偽書だとされている[9]。 偽文書と指摘されながら、正当な中世史料として世に出回った例として「椿井文書(つばいもんじょ)」と通称される文書群がある。
概要
位置付け
日本の歴史における偽書
『偽書叢』に掲載された偽書(抜粋)
『甲陽軍鑑』[注 3]、『三河後風土記』『徳川歴代記』『未来記』
『偽撰の書目』に掲載された偽書(抜粋)
『江源武鑑』『三河後風土記』『大成経』
歴史書
江戸時代の戦記物・系図の偽書
江戸?現代が望まれています。
偽文書
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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