人間関係
種類
ボーイフレンド
側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻や妾にあたる女性を指す[1]。 本来は正室の位置づけが「家族の一員」であるのに対し、側室の位置づけは「使用人」である[2]。この点で「本妻=正室」が家族の一員であるのとは厳密には異なる[2]。 男女の情や同居人同士の親近感、その家の当主や家政の方針が絡んでくるため、上述の区分けは厳密には守られない事が多く、時代や身分によって正室と側室との関係は多様であり、君主と下僕のような厳格な差があったケースから、まるで実の姉妹のように扱いに大差がないケースまで色々であった。儒教倫理に基づく建前としては「正室が一人で側室が複数」が正格であったが、日本では側室を複数あるいは一人もちながら正室を置かなかった例や、正室のみで側室を置かなかった例、複数の正室を置いて側室をもたなかった例などがあり、側室の置き方は一定していない。 歴史学者の福田千鶴は今日知られる「側室」概念が登場するのは、1615年に制定された武家諸法度によって大名の婚姻が将軍の許可制とされ、大名の正式な妻(正室)が1名とする一夫一妻制が明確化されて、それが全ての武家階級に広まった以降のこととする(それ以前でも武家法における慣習法では武士の婚姻に主君の許可が必要と考えられていた)。それ以降でも、法的に妻としての身分が与えられない妾は複数持つことが出来たが、子供を産むなどの事情によって法的には妾でありながら内々で妻の扱いを受けたのが「側室」の始まりであるとする。反対に言えば、1615年以前の武士は許される状況であれば妻を複数を持っていても問題にされず、2番目以降の妻は「次妻」「別妻」と称されていたという(勿論、これとは別に妾身分も存在していた)。従って、徳川家康あるいはそれ以前の歴史上の人物に「側室」概念をそのまま持ち込むことは問題があるとしている。例えば、豊臣秀吉の正室は浅野寧(豊臣吉子)であるが、浅井茶々・京極龍・前田摩阿・三の丸殿(織田氏/蒲生氏)の4名は前後の違いはあるけれど法的には寧と同格の「妻」であり、他の女性とは区別が存在したという。それが江戸時代以降の武家の一夫一妻制の概念に基づいて寧以外の4名は「側室」と貶められたのだという[3]。 中国の諸王朝では正室である皇后が死去、または何らかの理由により正室の身分を剥奪されて正妻が存在しなくなると、継室として新しく皇后を立てるが、この際新たに迎えるのではなくその時点で多数いる側室の中から事実上の格上げとして新たに選ばれる場合がほとんどである。
側室の実態の多様性