偕楽園_(札幌市)
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偕楽園緑地
KAIRAKUEN GREEN SPACE
2015年4月
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分類都市緑地
所在地 日本札幌市北区北6 - 7条 西7丁目
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度4分5.2秒 東経141度20分40秒 / 北緯43.068111度 東経141.34444度 / 43.068111; 141.34444座標: 北緯43度4分5.2秒 東経141度20分40秒 / 北緯43.068111度 東経141.34444度 / 43.068111; 141.34444
面積2797m2[1]
前身偕楽園
現況年中開放
バリアフリー車椅子用水飲台
告示2002年平成14年)3月29日[1]
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偕楽園(かいらくえん)は、かつて北海道札幌市に存在した公園。札幌最古の都市公園である。日本にはさらに古い由来を持つ公園も多くあるが、それは旧来の名勝名跡を「公園」と改めたものであり、意図して無から造成した都市公園としては、この偕楽園が日本最古となる[2]

跡地は都市緑地「偕楽園緑地」として整備されている。
歴史

1871年明治4年)、開拓使の判官岩村通俊によって偕楽園は開かれた。当時の札幌は北6条を北端としており、そのさらに北にある偕楽園一帯は「郊外」であった[3]。あたりは原生林に覆われ、アイヌ語で「野の傍の泉池」を意味する湧水池「ヌ??・サ?・メ? (Nup-sam-mem)」が豊富な水を湧き出させ、サクシュコトニ川ほかいくつもの小河川が流れていた[4]。命名者は薄井龍之で、日本三名園の一角たる水戸偕楽園に範を求めたといわれる。さらにさかのぼると、『孟子』の「古の人は民と偕(とも)に楽しむ」という一節に由来する名称である[5]

偕楽園の機能は、公園という言葉から連想される「憩いの場」よりも、むしろ産業振興に重きを置いており、各種の施設が造成されていた[6]

1880年(明治13年)には貴賓接待所として清華亭が建設され、翌1881年(明治14年)には明治天皇の巡幸を迎えた[7]

しかしその後、この地に集約されていた各種施設は札幌の発展とともに分散していった。1887年(明治20年)以降、中島公園が本格的に整備されると、対照的に偕楽園の影は薄くなっていった。南側に幌内鉄道が開通し、市街化の北への広がりを遮断してしまったのも、衰退に拍車をかけた[8]

1898年(明治31年)、清華亭を含む一帯は対馬嘉三郎へと払い下げられ、偕楽園は公園ではなく私有地と化した。翌1899年(明治32年)、斉藤いくが池畔の博物所を改装して料亭「偕楽亭」を開き、清華亭は集会場となった[9]。斉藤は数年後に南3条西4丁目の「幾代庵」へと本拠を移して大いに儲けたが、支店となった清華亭と偕楽亭からは客が去り、そのうちに店じまいした。さらには地主の対馬が明治の末に東京へと去るにあたり、偕楽亭は一介の借家となった[10]

札幌の人口が急速に増えていく中、偕楽園は子供たちの遊び場となっていたが、大正期になると宅地化の波が押し寄せてきた。そこに資産家たちが狭い路地に「偕楽園廉売市場」を設けて賃貸したことで、ますます人家が密集することになった[11]

かつてはが遡ったサクシュコトニ川も流れ込む生活排水によって汚濁したが、1950年(昭和25年)ごろまでは水源のひとつである「ヌ??・サ?・メ?」は涸れておらず、有志によって「井頭竜神」の祠が建てられた。ところがその翌年、都市開発の影響によって一帯すべての水脈が涸れ、そのまま回復することはなかった[12]。それでもささやかな水神信仰までは絶えず、1953年(昭和28年)9月には立派な祠堂が造営されている[13]

やがて濁った水をたたえていた池も自然に埋まり、その跡地は「琴似サクシ広場」と呼ばれるようになった。1979年(昭和54年)、一帯は整備されて「かいらくえん公園」となり、水神祠もその隅に移された[14]。そして2002年平成14年)、この地は「偕楽園緑地」として改めて公示がなされた[1]
施設

偕楽園の内外にはさまざまな勧業施設があった。
試験場
1871年(明治4年)、園に隣接する3600坪の土地に「蔬菜果樹栽培試験場」が開設された[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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