この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "偐紫田舎源氏"
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年1月)
『偐紫田舎源氏』第12編より。各編とも上下冊の表紙を並べると1枚の絵となる.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学
『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)は、柳亭種彦の未完の長編合巻。挿絵は歌川国貞。文政12年(1829年) - 天保13年(1842年)刊[1]。江戸時代最大のベストセラーとなり[1]、種彦の代表作となった。14年にわたって書き継がれたが、作者の筆禍と死去により、第38編(152冊)までに終わった。ただし、第39編と第40編は、遺した稿本により1928年(昭和3年)に公刊された。通称『田舎源氏』[要出典]。『源氏物語』を通俗的に翻案した小説で、「偐」は「似せ」「偽」の意。 紫式部の『源氏物語』を下敷きにして、時代を平安時代から室町時代へ移している[1]。語り手は、江戸日本橋・式部小路の女・お藤で、鉄砲洲の人丸神社に参詣し、石屋の二階に仮住まいして筆を取った、という設定で語りはじめる。 将軍足利義政の妾腹の子・光氏が、将軍位を狙う山名宗全を抑えるため、光源氏的な好色遍歴を装いながら、宗全が盗み隠していた足利氏の重宝類を次第に取り戻す一方、須磨・明石に流寓して西国の山名勢を牽制し、宗全一味をはかりごとで滅ぼした後、京都に戻り、将軍後見役となって栄華を極める。 前半部分は、光源氏にあたる足利光氏が山名宗全の隠謀を暴く推理小説仕立てで[1]、22編以降は『源氏物語』に忠実な翻案となっている[1]。 柳亭種彦は、合巻の『正本製』(しょうほんじたて)シリーズなどですでに流行作家になっていたが、年長の曲亭馬琴も『金毘羅船利生纜』『傾城水滸伝』などの長編合巻で人気を集めていた[1]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それぞれ『西遊記』『水滸伝』の翻案である[1]。馬琴が中国の小説に詳しいなら、種彦は日本の古典に通じている。『源氏物語』の翻案で対抗しよう、という動機であったろうと言われている。[独自研究?] 『偐紫』の『紫』は、紫式部にも高級染料の紫にも通じる。[独自研究?] 版元は通油町(現在の中央区日本橋大伝馬町)の、3代目仙鶴堂鶴屋喜右衛門[1]。半裁した半紙の右左に1ページずつを刷り、2つに折って10枚重ねて綴じて、1冊20ページ、上下2冊を封筒に入れて1編とした。B6に近い中本であった。[要出典] 種彦は当初『源氏』の全54帖を翻案・出版するつもりはなく、「紅葉賀」あたりで完結する予定だったが[1]、予想外の好評により書き継ぐことになったようである[1]。
あらすじ
経緯