偏向報道
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偏向報道の定義、および考え方には複数あり、統一・明確化されてはおりません。本項を読み進める上で、この点に十分留意をお願いします。Wikipedia:免責事項もご覧ください。

偏向報道(へんこうほうどう)とは、ある特定の事象について複数の意見が対立する状況下で、特定の立場からの主張を否定もしくは肯定する意図をもって、直接的・間接的な情報操作を行うといった報道のことである。この言葉はその出来事の利害関係者が使うことが多いと主張する者もいるが、利害関係がなくとも意見が対立する場合、偏向報道であるか否かの判断が分かれることにも留意が必要である。
概要

ヨハネス・グーテンベルク活版印刷技術発明以降、特にマスコミが台頭してきた19世紀、この「世論誘導力」の大きさに驚き、注目したのは権力者達であった。そして自らの権力安泰を図るために、すなわち表現言論を統制するための法を制定あるいは強化し、権力者に都合のよい報道が各国で行われた。すなわち偏向報道の歴史はマスコミ台頭と同時にはじまっている[1]

20世紀に入り電波マスメディア用に実用化されると、時の権力者はこれを大いに利用した。有名なものとしてはナチス・ドイツによるものがあり、世界初のテレビジョン放送開始はナチスの宣伝・世論誘導の目的を持った「国策」として達成されている。日本においても同じであり、検閲と一体化されたラジオによる「権力偏向報道」がなされた[1]

しかしその結果は悲惨なものとなり、第二次世界大戦終結後、これに懲りた国々では表現の自由を厳格に定めて「権力偏向報道」を撤廃、併せて「権力監視の役目」をマスコミに与えた。これ以降、これらの国々での偏向報道とは、それまでの「権力に都合のよいように恣意的に歪めた報道」あるいはその逆のみならず、「多面的考察を欠いた非中立的報道」あるいは「特定個人の思想などを正当化するため恣意的になされる報道」など複数の定義、考え方がされるようになった[1]

戦後の日本でマスコミの偏向報道をあからさまに主張した公人は、佐藤栄作総理大臣が最初とされる。1972年6月の退陣表明記者会見で、「僕は国民に直接話したい。新聞になると(真意が)違うからね。偏向的な新聞は嫌いなんだ、大嫌いなんだ。(記者は)帰って下さい。」と新聞記者を退席させ、テレビ局のカメラに向かって語った。これは日本の場合、テレビ、すなわち放送が唯一、法的規制を受ける言論報道機関であり、放送法に、政治的に公平であること、事実をまげないことなどが詳細に規定され、また放送によって権利侵害を受けた人などから2週間以内に請求があり、調査の結果「誤った放送」をおこなったことが判明した場合には2日以内に訂正放送をおこなわなければならないことが、罰則とあわせて定められていることが理由であった[1]

同じく元総理大臣の田中角栄は、マスコミを「第四の権力」と表現し、偏向報道をマスコミの武器として認識していたという。産経新聞鹿内信隆は、社長だった1967年7月当時の広告主向け説明会で「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか。」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」と演説した。また、1970年9月には、産経拡販への協力を通じた支持を求める田中(当時は自民党幹事長)の通達が、全国の自民党支部連合会長、支部長宛に「取扱注意・親展」として送付され、国会で取り上げられたこともある。

国によって違いはあるが、概ね、「政治的に公平であること」「事実をまげないこと」「できる限り多面的に検討すること」などが法規定されているのは、いわゆるテレビ、ラジオなどの「電波報道」のみである。これは有限である電波を媒体として利用すること、また速報性・同時性の高さから大衆への影響力が非常に強いというのが理由である。しかしもとより表現とは特定の目的をもってなされるものであるから、電波報道といえども完全な公平性の実現などは不可能、結果、せいぜい最大公約数的な内容までにしかならない。対して媒体無限の新聞、雑誌などに規制はなく、新聞のいうところの「不偏不党の立場」などは、あくまでも自主的なもの、各社の考え方の違いがストレートに表れがちである。同じ事象を扱う場合であっても、電波報道と新聞、雑誌などの報道内容に大きな違いが生じるのはこのためであり、この違いをもって大衆から、どちらかが偏向報道であると言われることもある。そしてこれは大衆のみならず、例えば放送局と新聞社間でもあることで、放送局は特定の新聞社の社説を電波にのせることができない、これに対して新聞社が抗議する、最悪は法闘争にまで発展するといったこともある[1]

2008年11月、トヨタ自動車相談役奥田碩は、年金問題に関するマスコミの報道について、「個人的な意見だが、本当に腹が立っている。」「あれだけ厚生労働省を叩くのは、ちょっと異常な話。」と不快感を示し、続けて、「なんか報復でもしてやろうかな。例えばスポンサーにならないとかね。」と広告の引き上げを示唆した[2]。国家権力の監視はマスコミの役目ではあるが、それが「過ぎたもの」と大衆に認識され、転じて偏向報道とみなされると、かえって報道活動への大衆圧力、さらには権力の介入を招き、報道の自由を危機に晒す恐れがある[1]報道におけるタブーも参照)。
報道の不正確性・偏向性

以下、「電波報道」と「新聞報道」を例にして述べる。

電波報道にはその媒体の性質より、概ね各国で直接的にその表現を規制する法律[注 1]があり、結果、視聴者やスポンサーの意向の反映は間接的、各局「横並び」の内容になるが、よって法規制による偏向性もまた必然的に横並びにあらわれてくる。対して新聞はそれぞれが個性、主義主張を持つもの、各国ともに概ね、民主政治やそれにより成立している国家を暴力によって転覆させる主張など極端なもの、人権侵害などに対する規制があるくらいで、基本的に自由であることから、同じ事象を取り上げても各新聞社によって内容はかなり変わる。読者やスポンサーの意向が直接的に反映されることもあり、結果、必然的にそれぞれの偏向性があらわれてくる。そして媒体には「限り」がある、すなわち電波報道では「時間」、新聞報道では原理的には無限といえども現実には限りのある「紙面」であり、さらに「事実は必ずしも真実ではない」ことから、もともと電波報道、新聞報道ともに最善を尽くしたとしても、ある程度の不正確さは避けられない。すなわち「電波報道」「新聞報道」ともに、大なり小なり「偏向性」と「不正確さ」は付きものである[1]
日本と欧米などでの報道受信の違い

日本と欧米などでは「表現責任の帰属」に対する考え方が大きく違う。すなわち欧米などでは「表現者個人」であるが、日本では「マスコミ」であり、いわゆる「表現考査」は表現者個人ではなくマスコミによって行われている[1](詳細は表現の自主規制を参照)。

このため、欧米などでは古くから情報の受け手、すなわち視聴者や読者それぞれが、複数のマスコミ報道を比較・検討して「真実性の判断をする」ことが普通で、今日ほぼ定着しているのに対し、日本ではメディアの多様化とは裏腹に、未だ視聴者や読者の多くが、例えばマスコミ1社の、自分にとって良し悪しのいずれについても「都合のよい報道」をそのまま「真実と受け止めてしまう」ことが多く、例えば特定の食品が健康によいと報じられると、途端に店頭での売り切れが続出する、ところがその後、その食品の効果がさほどでもなかった、あるいは最悪は全くなかったことが別途報道されると、今度は一転して全く売れなくなる、そしてその食品が健康によいと発言した発言者ではなく、その発言を報じた報道機関に対して一斉に批難が集中、直接責任を問うといったことが繰り返し起こっている。これは大手マスコミ主導で世論が動くことの裏返し、すなわちごく一部の大手マスコミの主観論に流され、民主主義の形成・成長・維持に絶対不可欠な「少数意見の尊重」を阻害しかねず、最悪は大手マスコミによる直接的な情報操作や不正などを大衆が見抜くことができなくなり、誤った道に嵌る危険性をも孕んでいる。このことから日本ではメディア・リテラシー教育の必要性が声高に叫ばれてもいる[1][3]

そしてまたこのことから日本では唯一、放送法などによる直接的な縛りを受ける電波報道について、それを根拠として「偏向報道」として問題視されることが多くある。これは概ね日本独特のものであり、欧米などではよほどのこと、すなわち武力を用いた内乱を視聴者に呼びかける、あるいは明らかに誤まった内容の報道で、被報道者の人権などを著しく侵害したといったことがない限り、放送局がその直接責任を問われることはない[1]

電波報道の法規制、特に概ね各国共通である訂正放送の義務は、逆に電波報道の自由を保証するためのものでもある。しかし日本においては今日においてもその規制の意図が大衆に理解されていないきらいがあり、ゆえに「偏向報道」が度々問題になるともいえる。


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