倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で?ウェ)
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。なお倭人(わじん)は、倭国の国民だけを指すのではない。和、.mw-parser-output .jisx0212font{font-family:"Hiragino Sans Pr6N","Toppan Bunkyu Gothic","Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ Pr6N W3","A-OTF 新ゴ Pr6N R","源真ゴシック Regular","源ノ角ゴシック JP Normal","Source Han Sans JP Normal","Noto Sans CJK JP DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","小塚ゴシック Pr6N R","KozMinPr6N-Regular","メイリオ","Meiryo","Meiryo UI","游ゴシック","游ゴシック体","VL Pゴシック","MS Pゴシック","MS PGothic","小塚ゴシック Pr6N M","小塚ゴシック Pr6N","KozGoPr6N-Medium","A-OTF 新ゴ Pr6N","Arial Unicode MS",Code2000}?とも記す。※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。※「大和」を参照のこと。
概要
「日本」の前身としての「倭」「倭国」および「倭人」も参照
倭については、中国正史で記述されている。後漢書倭伝や魏志倭人伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、南斉書倭国伝、梁書倭国伝、隋書倭国伝、北史倭国伝、南史倭国伝などに記述されている。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある[1]。中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている[2]。倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされる。
倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王(キミ)であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも絶えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。
『日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。
「倭」という呼称「大和」も参照
『古事記』や『日本書紀』では倭(ヤマト)日本(ヤマト)として表記されている。魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。また『日本書紀』では夜摩苔つまり?ia mw? d? もしくはjia mo t?aiと表記されていた。
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (i, e, o) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆」は"yamato"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致し現在の「奈良県」にあたる。筑紫の「山門」(山の入り口)はyamatoであり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[3]。なお、山門や山都などの「と(甲)」が「魏志倭人伝」に記録された場合、「伊都(怡土郡)」や「都支(土岐郡・刀支)」のように「台」ではなく「都」が当てられた可能性が高い。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない[4]。