この項目では、弥生時代?古墳時代、飛鳥時代にかけて中国の南東にあった政治組織・国家について説明しています。日本列島の地理名称としての古名については「倭」を、倭の住民については「倭人」を、古代の大和国の呼称としての「倭国」については「大和国」をご覧ください。
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倭国(わこく)とは、古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時中国の南東にあった政治勢力、国家を指して用いた呼称。倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。隋書倭国伝
や北史倭国伝では、その国境は東西に五カ月で南北に三カ月とされる。倭人は紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。7世紀後半に倭国と呼ばれていたヤマト王権は対外的な国号を日本に改めたが『後漢書』以来の倭国との関連は定かでない。中国正史の旧唐書、新唐書の間でも記述に差異がある。「倭」ないし「倭人」が、中国の歴史書物に登場するのは、弥生時代中期の紀元前150年頃[注釈 1]のことであり、中国では、『漢書』に記された前漢代にあたる。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢しており、多数(『漢書』には「100余」と記す)の政治集団(国)を形成していたことが知られている。
1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
『後漢書』東夷傳
書き下し:建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う。
これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。
『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡平野が比定地とされている。この地からは『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が出土しており、奴国の中枢と考えられる須玖岡本遺跡(春日市)からは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。また、「伊都国」の中心と考えられる三雲南小路遺跡(糸島市)からも紀元前1世紀の王墓が検出されている[1]。
その約50年後の永初元年(107年)には、倭国王帥升が後漢へ遣使し、生口(奴隷)を160人献呈している。「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
『後漢書』東夷傳
書き下し:安帝永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願る。
107年の文献に名を残す日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に、対外的に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられる。
後漢書は遥か後代の編纂であるが、このことから、1世紀末から2世紀初頭にかけて、倭国をある程度代表する有力な政治勢力が生まれたとする見解があるものの、日本列島各地の豪族がそれぞれ倭国王を称していた可能性も否定できない。いずれにせよ、これ以降、7世紀最末期までの間、倭・倭人を代表する/統合する政治勢力は、対外的に「倭国」を称し続けた。
帥升以降、男子が倭国王位を継承していったとされるが、2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた(倭国大乱)。
魏志倭人伝と卑弥呼詳細は「魏志倭人伝」および「卑弥呼」を参照
この大乱は、邪馬臺國/邪馬壹國(邪馬台国参照)に居住する卑弥呼が倭国王に就くことで収まった。卑弥呼は240年代に亡くなり、その次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたびあった。
『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。不弥国から投馬国までは水行20日で到着し、投馬国から邪馬台国までは南へ水行10日陸行1月で到着する。邪馬臺國王卑弥呼も魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。
台与以後、しばらく倭国による中国王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば、120以上の国造が日本列島の各地にいて、地域国家が形成されていた。
4世紀頃になると文献史料に登場しなくなり、空白の4世紀と呼ばれ謎につつまれている。
古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。
4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。
倭国王は、大陸南朝の王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称し、国内的には熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文に「治天下獲□□□鹵大王」とあるように、王または大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称した[注釈 2]。
「倭国」から「日本」へ1532年に作成された世界地図『四海華夷總圖』。西の果てに大秦国の表記がある
『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國で記述される。隋書では、?國は百済・新羅から東南、水陸三千里にあるとされ、その国の領域は、東西に五カ月で、南北に三カ月とされている。607年に?國王多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、?國王(倭国王)の表記を用いず、「日出處天子」(日出ずるところの天子)と記している。これは当時の仏典『大智度論』(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書)などに「日出處是東方 日没處是西方」とあるように東方にあることを示しただけとする考えもある。