倭人
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この項目では、日本列島住民の古名について説明しています。地理名称としての日本の古名については「」を、弥生時代から飛鳥時代にかけての日本国家については「倭国」を、アイヌとの対義としての自称については「和人」をご覧ください。

倭人(わじん)は、
狭義には中国の人々が名付けた、当時、倭国に住んでいた民族または住民の古い呼称。

広義には、古代日本語?上代日本語を母語とし、中国の歴史書に記述された、中国大陸から倭国の領域において活動していた民族集団

一般に2. の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり[1]、「倭人」の語が1. を指すようになったものと考えられている。

本項では、中国における派生的な差別語蔑称についても扱う。
概要「倭・倭人関連の中国文献」および「倭国」も参照

古くは戦国から期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。

倭人についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗慣習言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「?人」とは区別されたものとして書かれている。

5世紀南北朝時代の南朝の時代の432年元嘉9年)に范曄が書いた『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)には1世紀中葉の記述として「倭の奴国」「倭国の極南界」、2世紀初頭の記述として「倭国王帥升」「倭国大乱」とあり、小国分立の状態はつづきながらも、政治的には「倭国」と総称されるほどのまとまりを有していたことが知られる。また南朝の史書には沈約441年 - 513年)によって書かれた『宋書』倭国伝には倭の五王について書かれている。

656年顕慶元年)に完成した『隋書東夷伝には「九夷」「倭奴国」という記載がある。

945年に書かれた『旧唐書』、1060年に書かれた『新唐書』にも倭人に関する記述がある。
呼称の由来

日本列島に住む人々が「倭人」と呼称されるに至った由来にはいくつかの説がある。の官人如淳は「人面に入れ墨する(委する)」習俗をもって倭の由来と論じたが、臣?や顔師古らから、倭と委の音が異なることなどを理由に否定されている[2]平安時代初期の『弘仁私記』序はある人の説として、自称を「わ」(われ)としていたことから、中国側が倭の国と書きとめた、とする説を記している。

また、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、一条兼良が「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。

また、「倭」は「背丈の小さい人種」を意味したという説もある。

木下順庵も、小柄な人びと(矮人)だから、倭と呼ばれたと述べている。新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。また作家の井沢元彦は「大陸の人間が彼らの国家名を聞いた時に、当時未だ国家概念が存在しなかった彼らは、自身の帰属団体名を答えた、それが『』である」としている[3]。このように多くの説が立てられたが、定かなものはない。

「倭(委)奴国」を「倭の奴の国」と解釈することに異論もある。原文の「魏志倭人伝」を解釈した漢字の本家の学者の中には、古には「奴」という字に女性の蔑称の意味があり、女王国である倭を「倭奴国」と呼称し、中華思想による冊封国家、目下の国の倭国に対する蔑称のようなものと捉えるべきである、という説である。ただ遣隋使、遣唐使が行われるようになって、後世の中華思想国でも、そういった蔑称は次第に使われなくなった、と捉える見方である。
長江流域の「倭族」

倭・倭人を日本列島に限定しないで広範囲にわたる地域を包括する民族概念として「倭族」がある。鳥越憲三郎の説[4]では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である[5]。鳥越は『論衡』から『旧唐書』にいたる史書における倭人の記述を読解し、長江(揚子江)上流域の四川雲南貴州の各省にかけて、複数の倭人の王国があったと指摘した。その諸王国は例えば『史記』にある国名でいえば以下の諸国である。?(てん)夜郎貴州省赫章県に比定され、現在はイ族ミャオ族ペー族回族などが居住)、昆明、且蘭(しょらん)、徙(し)、キョウ都(現在の揚州市?江区に比定)、重慶市)など[4][6][4]。鳥越は倭族の起源地を雲南省の湖?池(?池)に比定し、水稲の人工栽培に成功したとし、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした[4]。分岐したと比定される民族には、イ族ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族[7])、タイ族ワ族[8]ミャオ族カレン族ラワ族などがある[9]。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣注連縄などの風俗が共通するとしている[4]

この倭族論は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学安田喜憲の長江文明論などとも重なっている。

少数意見として、約7300年前の鬼界カルデラの噴火による災害で日本からの難民が朝鮮半島経由で各地に流れ着いたのが、倭人の源流であるとする説がある。この意見では、当時亜熱帯の気候であった九州で小規模に行われていた水田稲作が難民とともに朝鮮半島や大陸に渡り、大陸でより発展した後に移民として日本に戻ってきたのではないかとの見解もある。朝鮮半島の遺跡の空白期間が終わるのがこの頃でであり、長江周辺で水田稲作が盛んになるのもこのあたりの時代からである。その後、大陸での異民族との戦乱の結果として排斥され父祖の地である日本を目指して里帰りしたのが弥生期初期の移民であるという見方である。知らない土地を目指したのではなく、祖先が日本から来たことを知っていたから日本を目指したということになる。
「百越」としての倭人

諏訪春雄は倭族を百越の一部としている[10]。百越とは、長江・揚子江流域に住む諸々の種族の意で、春秋時代も含む(呉は現在の江蘇省、越は現在の浙江省一帯)。

岡田英弘は、倭国の形成について、現在のシンガポールマレーシアのような「中国系の移民(華僑)と、現地住民とのハイブリッド状態である、都市国家の連合体」であるとして、現在の中国人(漢人)自体も使用言語の共通があるだけで、起源はさまざまな民族がまじっていることから、「王朝末期の衰退がなければ、日本列島も『中国文明の一部』になった可能性が高い」とも述べている。岡田は中国古代王朝のやその後継といわれる河南省の禹県や杞県などを参照しながら、「夷(い)」とよばれた夏人が長江や淮河流域の東南アジア系の原住民であったこと、またの墓があると伝承される会稽山人の聖地でもあり、福建省広東省広西省からベトナムにかけて活動していた越人が夏人の末裔を自称していること、また顕王36年(前333年威王7年)越国に滅ぼされ越人が四散した後始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後人が朝鮮半島に進出する前にこれら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する[11]


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