倭・倭人関連の朝鮮文献(わ・わじんかんれんのちょうせんぶんけん)は、朝鮮半島に伝わる各歴史書から、倭・倭人と関係する部分のみを書き出している。 好太王碑文(414年(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦)建立) 訳;井上秀雄『古代朝鮮』〈講談社学術文庫〉、2004年 ISBN 4-06-159678-0
好太王碑文
391年(辛卯(耒卯)年)「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
三国史記(高句麗本紀)
132年と146年の2回にわたり、太祖大王の弟・遂成(後の次大王)が倭山で田猟をしたという記事がある。「倭山」は未詳であるが、倭や倭人とは無関係と見られる。他には倭・倭人関連の記載は無い。
三国史記(百済本紀)
397年 夏五月 阿?王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、阿?王はこれを迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年、阿?王が薨じた。王の次弟、訓解が摂政し、太子が国に帰るのを待った。末弟、?禮が訓解を殺して、自立して王となった。腆支は倭にあって(阿?王の)の訃報を聞き、哭泣して帰国を願った。倭王は兵士百人を護衛に付けて送らせた。国境に至ろうとした時、漢城人の解忠が来てこう言った「大王が世をお棄てになり、王弟の?禮が兄を殺して自ら王になりました。太子が不用意に入国されないことを願います」。腆支は倭人を留め自らを護衛させた。海中の島で、時の来るのを待った。国人が?禮を殺して、腆支を迎え即位した。妃の八須夫人が王子久?辛を産んだ。
409年 倭国が使者を遣わし、夜明珠を送ってきた。(腆支)王は、あつく礼遇して、歓待した。<409年条>
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
653年 秋八月、義慈王は倭国と修交した。
662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。
百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。
三国史記(新羅本紀)
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳