凡例倉橋 格
時代江戸時代
生誕延享元年(1744年)
死没寛政元年7月7日(1789年8月27日))
改名勝?→格
別名幼名;亀之助、通称:隼人、寿平。
号:寿山人・寿亭、春町坊。戯作上の筆名:恋川 春町
戒名寂静院廓誉湛水居士
墓所東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺
官位なし
主君松平昌信→松平信義
藩駿河小島藩年寄本役
氏族桑島氏→源姓倉橋氏
父母実父;桑島勝義(九蔵)、養父;倉橋勝正
子倉橋敬忠(忠蔵)
特記
事項『金々先生栄花夢』・『鸚鵡返文武二道』などの作者
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恋川 春町(こいかわ はるまち、延享元年(1744年)- 寛政元年7月7日(1789年8月27日))は、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師である。安永4年(1775年)『金々先生栄花夢』で黄表紙といわれるジャンルを開拓し、黄表紙の祖と評される[1]。
本名は倉橋 格(くらはし いたる)[1][2]。諱は初め勝?、後に格。本姓は源氏、幼名は亀之助、通称は初め隼人、後に寿平[1][2]。号は寿山人[1][2]・寿亭、春町坊。狂名は酒上不埒(さけのうえのふらち)[1][2]。筆名は、江戸藩邸のあった小石川春日町[注釈 1]に由来するとともに、当時の人気絵師勝川春章を踏まえたものである[1]。
駿河小島藩・滝脇松平家の年寄本役として藩中枢に関与し、石高は最終的に120石に及んだ。安永天明期に自画自作の黄表紙を多数残し、洒落本や滑稽本などの挿絵も見られるが、錦絵は希少である。 延享元年(1744年)に紀州徳川家附家老の安藤次由(帯刀)の家臣である桑島勝義(九蔵)の次男として誕生[1]。宝暦13年(1763年)に召しだされて金6両2人扶持で小島藩士となり、中小姓格右筆見習書役兼帯となる。同年、同じく小島藩士で父方伯父の倉橋勝正の養子となる[1]。明和4年(1767年)に通称を隼人から寿平と改名。 その後、小納戸格、刀番となり、明和8年(1771年)に藩主松平昌信が死去して松平信義が藩主になるとさらに出世して、『高慢斎行脚日記
経歴
しかし、その翌年に執筆した黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)幕府から呼び出しを受ける[1]。春町は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し[1]、まもなく同年7月7日(1789年8月27日)に死去したという[1]。自殺と推測する説もある[1][2]。享年46。墓は東京都新宿区新宿二丁目の成覚寺にあり[1]、新宿区指定史跡となっている。