くらもと そう倉本 聰
プロフィール
本名山谷 馨(やまや かおる)[1]
誕生日 (1934-12-31) 1934年12月31日(89歳)[1]
出身地 日本・東京都渋谷区
主な作品
テレビドラマ『前略おふくろ様』シリーズ
『大都会 闘いの日々』
『さよならお竜さん』
『北の国から』
『昨日、悲別で』
『ライスカレー』
『火の用心』
『優しい時間』
『風のガーデン』
『やすらぎの郷』
映画『駅 STATION』
受賞
受賞歴参照
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倉本 聰(くらもと そう、1934年12月31日[1][注 1] - )は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨(やまや かおる)[1]。東京都渋谷区出身。妻は女優の平木久子
(演劇集団 円所属)。父は俳人、日新書院取締役の山谷太郎。祖父は医学博士、日新医学社社長の山谷徳治郎。大伯父は衆議院議員の山谷虎三。東京大学文学部美学科を卒業後、ニッポン放送を経てフリー。おもにテレビドラマの脚本家として活躍。東京から北海道へと居を移し、『前略おふくろ様』『北の国から』など多くのヒット作を生み出した。主宰した「富良野塾」にて26年間にわたり後進を指導。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章した。1977年(昭和52年)より富良野市に在住。 父祖地は岡山県[3]。分家した祖父の代で東京に進出し、家は代々医学雑誌の出版や新薬の販売を手がけてきた。異色の父・山谷太郎は自ら興した自然科学系の出版社を営む傍ら、水原秋桜子門下の俳人でもあった[3][4]。母は太郎の後妻で[3]、両親はともにクリスチャンだった[5]。 戦時中は山形県上山市や岡山県浅口郡金光町 (現:浅口市 )に疎開[6][7]。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数か月後には東京に戻ることに成功した[8]。この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している[9]。 また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた[10]。 東京学芸大学附属小金井小学校から麻布中学校・高等学校へ進学。
経歴