修道院(しゅうどういん、英語: Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。
男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い[1]。
カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。
帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が、資産として処分されてしまった。 修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになった。 古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒が居た。塔の頂で修行する人々は正教会では登塔者(とうとうしゃ)と呼ばれるが、これらの人々の中では登塔者聖シメオン (390-459) が代表的存在である。こうした1人で修行を行う古代教会の聖者の多くが、正教会とカトリック教会の双方で聖人として記憶されている。 これらの1人として行う修行の形式と並行して、古代末期のエジプトから、砂漠において集団で求道生活を共にするという動きも始まった。 このような生活スタイルは東ローマ帝国全域に広がり、砂漠においてのみならず都市においても修道を行う者も現れてきた。それに伴い、都市にも大規模な修道院が建設されていった。コンスタンディヌーポリにおけるストゥディオス修道院
概説
西方においても修道はアイルランドに伝わり、アイルランドの修道者たちがイギリスやヨーロッパ本土において、人里はなれた土地を開いて修道院を建て神と共にある生活を営む修道院のスタイルを広めたといわれる。
現代の修道院は全てがそうとは限らないが、伝統的な形式を持った修道院には、聖堂、修室(回廊)、図書室、厨房などがある。