修道院
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イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院シナイ山にある正教会聖カタリナ修道院ロシアセリゲル湖の島にある正教会の聖ニル修道院。セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーによって1910年に撮影されたカラー写真パドゥーラ修道院イタリアカトリック教会グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った

修道院(しゅうどういん、英語: Abbey)は、キリスト教において修道士イエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。

男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士修道女独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会正教会カトリック教会聖公会ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い[1]

カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。

帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国バーデン王国ヴュルテンベルク王国バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が、資産として処分されてしまった。
概説

修道生活は4世紀頃、ローマ帝国による迫害の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の生活を求めた人々によって盛んになった。

古代教会の時代、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂、あるいは地面に立てた柱の頂きで1人で修行し、隠者のような生活を送るキリスト教徒が居た。塔の頂で修行する人々は正教会では登塔者(とうとうしゃ)と呼ばれるが、これらの人々の中では登塔者聖シメオン (390-459) が代表的存在である。こうした1人で修行を行う古代教会の聖者の多くが、正教会カトリック教会の双方で聖人として記憶されている。

これらの1人として行う修行の形式と並行して、古代末期のエジプトから、砂漠において集団で求道生活を共にするという動きも始まった。

このような生活スタイルは東ローマ帝国全域に広がり、砂漠においてのみならず都市においても修道を行う者も現れてきた。それに伴い、都市にも大規模な修道院が建設されていった。コンスタンディヌーポリにおけるストゥディオス修道院は463年に建てられている。東ローマ帝国内で培われた修道生活はその後、東ヨーロッパに伝播した。

西方においても修道はアイルランドに伝わり、アイルランドの修道者たちがイギリスヨーロッパ本土において、人里はなれた土地を開いて修道院を建て神と共にある生活を営む修道院のスタイルを広めたといわれる。

現代の修道院は全てがそうとは限らないが、伝統的な形式を持った修道院には、聖堂、修室(回廊)、図書室、厨房などがある。カトリック教会の観想修道会の修道院では、修室がある場所や部外者が入ることがゆるされない場所を「禁域」(クラウズーラ(ドイツ語版))と呼ぶことがある。

正教会をはじめとする東方教会の修道院では、信徒の日々の祈りと公祈祷に欠かせないイコンの製作という重要な役割を今日に至るまで果たしている。8世紀、東ローマ帝国皇帝が主導した聖像破壊運動に対し、抗議運動の先頭に立っていたのは東方の修道士達であった。

ヌルシアのベネディクトゥスが、「すべて労働は祈りにつながる」と言ったように中世以来の修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まですべて修道院の一員が手分けして行っていた。そこから、新しい技術や医療、薬品も生まれている。ヨーロッパに古くからある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよくみられるのはそのためである。ヨーロッパのワインミサ聖体礼儀に欠かせない)、リキュール(薬草酒等)、ビールは今でも修道院で醸造されているものも多い。

中世の修道院は王権の保護のもとに原野や森林を切り拓いた[2]。修道会の資産は世俗の地主と違い遺産配分などで分散されることもないため、広大な土地を治める地主となっていった。経済力のある修道会はモールドボード・プラウなど、貧しい農民には手の届かない農業革命の技術を率先して取り入れることができた。時とともに修道院は、修道士が自作するのではなく土地を貸し借地料を取る、水車風車による製粉権で収入を得る、収奪した余剰食糧を商材に市場を運営する、蓄積した富で金融業を営むなど、清貧とは程遠いアグリビジネスへと変貌した[2]

イギリスではヘンリー8世とバチカンの対立をきっかけとしてイングランド国教会が立てられたため、全てのカトリック系修道院は接収されて存在しない。
修道院と先進技術・医療行為

修道院が先進技術の発展に貢献した例は多数ある。14世紀・15世紀において戦乱によって農業技術の革新が遅れていたロシアに西欧の輪作技術を導入したのは、ロシア正教会荒野修道院群であったと考えられている[3]カトリック教会聖アウグスチノ修道会の修道士かつ司祭であり、のちには修道院長も務めたグレゴール・ヨハン・メンデル (1822-1884) は、遺伝に関する法則(メンデルの法則)を発見した事で有名である。

また、医療病院もそのルーツは修道院にある。旅人を宿泊させ巡礼者を歓待する修道院、巡礼教会をいうホスピス(hospice)が、余命いくばくもない人が最後の時間を心やすく過ごすための施設の意味のホスピスに転嫁したこと、歓待する(hospitality)が、病院(hospital)の語源でもある。修道院でリキュール(薬草酒として発達した面もある)が製造されているのもこうした医療行為に由来する。

中世ヨーロッパではイスラム圏からの知識導入が進み、多くの医学行為も移行、同化された[4]。結果として、園芸/ガーデニングが薬用としても特に重要となった[5][6]。例えば、ケシの茎の皮をすりつぶして蜂蜜と混ぜると、傷口の絆創膏として使用できたし[5]、その他バラユリセージローズマリーなどの香草や植物は、頭痛腹痛などの内的合併症に使用した[7]


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