修道院長
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出典検索?: "修道院長" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2013年10月)
西方教会における修道院長の紋章の基本型

修道院長(しゅうどういんちょう)とは、修道院の長である者を指すキリスト教用語である。ラテン語ではアッバス (Abbas) といい、原義は「」を意味する。西欧中世においては司教に匹敵する権威を持ち、世俗領主のような富と権力を持つ院長もあらわれた。女子修道院長の場合、女性形abbatissaとなる。正教会の修道院長については典院掌院を参照
称号の起源

アッバスという称号は、「父」をあらわすヘブライ語のアブ (ab) がシリア語化したアッバ (Abba) を経てラテン語に取り込まれたものである。「修道院長」を意味する英語のアボット (Abott)、フランス語アベ (abbe)、ドイツ語のアプト (Abt) などはいずれもこのアッバスに由来する。

この称号は、初めシリアの修道院で生まれて地中海世界に広まり、キリスト教界全体で修道院長を意味する言葉として定着していった。

もともとこの言葉は特別な司祭に対する敬称として使われており、現在でもコプト正教会では高位聖職者の称号として使われる。西方ではたとえばフランク王国では宮廷付司祭のことを「アッバス・プラティヌス」と呼び、メロヴィング朝からカロリング朝時代には従軍司祭を「アッバス・カステレンシス」と呼んだ。このように固定された意味をもたない称号だったアッバスが後に限定的に「長上」を意味するようになるが、修道院長の称号として、アッバスが定着するのにはまだまだ時間がかかった。

ヨーロッパ中世前期の西方教会では、修道会によって長上の呼び方が異なっていた。たとえばドミニコ会カルメル会アウグスティノ会では「プレポシトゥス」や「プロボスト」あるいは「プリオール」と呼ばれ、フランシスコ会では庭師を意味する「クストス」、カマルドリ会では「マイヨール」と呼ばれていた。

しかし時代が下ると、ラテン語圏では、やがて修道士たちのグループの長の称号としてアッバスが限定的に用いられるに至った。
修道制の歴史と修道院長

修道院の長上の歴史は、修道制の歴史とともに始まる。

修道制発祥の地であるエジプトでは、修道院長にはそれほど大きな権限は与えられていなかった。通常は一つの修道院のリーダーとなっているのが普通であったが、時たま複数の修道院を管轄することもあった。カッシアヌスによればテーバイのある修道院長のもとには500名もの修道士が従っていたという。ベネディクトゥスが西方の修道制の原型を定めると、修道院長のあり方も一つの修道院に一人の修道院長というベネディクトゥスの定めた形が適用されるようになった。しかし、修道院の中で、ある修道院の力が大きくなると、その修道院の院長が他の修道院にも影響力をもたらすようになるのは自然な流れであった。クリュニー修道院の改革運動では、大修道院長という制度を定め、複数の修道院を管轄する立場とした。

修道士は元々聖職者でなく一般信徒であったため、修道士たちのリーダーである院長も一般信徒であった。そのため秘蹟にあずかるためには修道士たちは最寄りの教会に通う必要があった。しかし、砂漠など人里はなれたところに修道院がある場合、教会に通うのは現実的に難しかった。このため、やがて修道士たちの中に司祭叙階されるものが出てくるのは当然の流れであった。それでも修道院長が聖職者でないという伝統は残った。5世紀ごろまでには東方の修道院ではほとんど修道院長が司祭あるいは助祭がなることが一般化していたが、西方ではそうではなかった。西方では東方よりも長く修道士が院長をつとめる習慣が続き、7世紀の終わりまで続いた。このような院長たちは決して聖職者ではなかったが、教会会議などで大きな働きをした。こうして448年第1コンスタンティノープル公会議787年第2ニカイア公会議などで修道院長の権利が認められたが、依然として「司教のもとで」という制限がつけられていた。
西方世界における修道院長

修道院長は元々地域の司教の管轄下に置かれており、西方では11世紀までそのような状況が続いていた。ユスティニアヌス法典でも修道院長は司教より下位に位置するものとされている。修道院長が司教の裁量の外におかれた最初の例は456年にアルルの教会会議で扱われたレリンの修道院長ファウストゥスの件である。ただ、この件に関しては修道院長が自分の権力をかさにきて司教をないがしろにしたというより、当該司教があまりに横暴で理不尽であったためというのが真相だったようである。6世紀に入ると修道院長と司教のもめごとが増えたため、徐々に修道院長には司教の権威から独立して教皇にのみ服従することが認められるようになった。修道者出身の教皇グレゴリウス7世も修道院の司教からの独立を後押しした。元々良い意図を持って進められた修道院長の権威の独立だったが12世紀までには徐々に濫用されるようになった。12世紀にはフルダの修道院長がケルン大司教より自分のほうが上位にあると主張するまでになる。

修道院長と司教は同等の地位にあるものとみなされるようになり、初期の公会議における禁止令やクレルヴォーのベルナルドゥスの意見などを無視するように、司教のみにゆるされたミトラ(司教帽)、特別な指輪や手袋、靴などを公然と修道院長が身に着けるようになった。ミトラ着用の許可については11世紀以前に数人の教皇によって与えられたとも言われているが、少なくともそれを許可した公文書については後代の贋作であるとみなされている。

史実の上で確かなものとされる修道院長のミトラ着用許可の最初のものは1063年に教皇アレクサンデル2世によって与えられたものである。これはカンタベリーのアウグスティヌス修道院の院長エゲルシヌスに与えられた。イングランドで最初にミトラ着用の許可を与えられたのは、1154年ハドリアヌス4世によってグラストンベリーの修道院長に与えられたものであった(ハドリアヌス4世は同修道院の出身だった)。以後、これにならうようにアビンドン、サンアルバンズ、バードニー、バトル、ベリーサンエドモンド、カンタベリーのサンアウグスティン、コルフスター、クロイランド、イブシャム、グラストンベリー、グロースター、ハイド、マルムスベリー、ピーターバラ、ラムジー、リーディング、セルビー、シュルスベリー、タヴィストック、トーニー、ウェストミンスター、ウィンチコン、サンメリーズヨークの修道院の院長たちにもミトラ着用の許可が与えられた。

修道院長のミトラを司教のミトラと区別するため、修道院長は金など華美な素材をミトラに使ってはならないとされたが、すぐに空文化した。ただ司教杖に関しては司教が外向きの杖を持つのに対し、修道院長は内向きの杖を持つことでその統治権が修道院内に限定されることを示す慣習が生まれた。

修道院長の服装が司教に近づいていくと、今度はその職権にも近づいていった。公会議においては修道院長が司教の職権を侵害しないことが再三確認されたが、やがて事実上黙認の形になり、1489年には教皇インノケンティウス4世助祭と副助祭の叙階許可を修道院長に与えている。ただし叙階が行えるのは自らの修道院の構成メンバーに限定されていた。

修道院長が亡くなると、司教は修道院外の人間を修道院長に据えることもあった。修道院のメンバーには修道院長を選挙で決める権利があったのだが、その結果を認定し、祝福するのは司教だったからである。司教の統治権からの独立を認められていた修道院では、新修道院長は認可と祝別を直接教皇から受けるためにローマに向かうのが常であった。修道院長になるのに必要な資格は25歳以上で私生児でないこと、その修道院のメンバーであることであった。もしその修道院の中にふさわしい人物がいなければ、他の修道院から新院長を選ぶこともできた。まれな例ではあったが院長が後継者の指名を行うこともあった。カッシアヌスはエジプトの修道院でこのようなやり方が行われたといい、聖ブルーノの逸話でもこのような話がみられる。やがて院長の任命権は教皇と国王たちの手に握られるようになっていく。イタリア半島では教皇が、フランスではフランス王が任命権を握るようになった。クリュニーやプレモントレ修道院などの影響力の大きな修道院では例外的に修道院長を選ぶ権利が与えられていた。修道院長の任期は終身であったが、修道会の上長からその地位を剥奪されるか、教皇や司教に選ばれた場合は院長の任を外れた。

中世におけるベネディクト会の修道院長の就任式についてはアビンドン慣習法に規定がある。新院長は聖堂の入り口で靴を脱ぎ、裸足で修道士たちの前を進む。


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