『修道女アンジェリカ』(しゅうどうじょアンジェリカ、Suor Angelica)は、ジャコモ・プッチーニの作曲した全1幕のオペラである。イタリアのとある尼僧院で修道女が自殺を企て、聖母マリアにその罪を赦され昇天するまでを描く。傾向の異なった3つの一幕物オペラを連続して同時に上演する「三部作」の第2番目の演目として、1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で初演された。
舞台裏に配される合唱に男声を含むほかは、すべてが女声で演じられるオペラである。 新進の劇作家・台本作家ジョヴァッキーノ・フォルツァーノは、プッチーニがその才能に注目し『外套』の台本作成を依頼した一人であった。この際フォルツァーノは「自分は他人の舞台劇の翻案でなく、オリジナルの台本を作成したい」との大望を述べてこれを断っている。 この『修道女アンジェリカ』はまさにそうしたフォルツァーノのオリジナル作品で、17世紀イタリアのとある修道院を舞台とした奇蹟の物語である。はじめフォルツァーノは舞台劇化を計画していたともいうが、1916年から17年にかけての冬にプッチーニにオペラ化の提案が持ち込まれたらしい。『外套』作曲終了直後であり、「三部作」構想のため残る2作の題材を探していたプッチーニはさっそくこの台本に飛びついた。なお、三部作のもう一作『ジャンニ・スキッキ』の台本もほどなくフォルツァーノが提供している。 フォルツァーノとプッチーニの2人は書簡上の相談でなく直接会って制作を進めたこともあって、その後『アンジェリカ』作曲が具体的にどのように進行したのかに関する史料は乏しい。しかし、1917年3月に開始された作曲は同年6月末にはほぼ完成(オーケストレーション含めた脱稿は同年9月14日)したことが判明しており、これは単幕物であることを勘案してもプッチーニにしては異例の速さである。ふだんは台本作家に対して繰返し改稿を要求するプッチーニも、今回はフォルツァーノの台本に大いに満足していたらしい。 たまたまプッチーニの2歳年長の姉イジーニアは修道女であった。プッチーニ家という代々の音楽家一家に生まれただけあって、彼女も修道院で長年オルガン奏者を務め、この1917年頃は一家の出身地ルッカ近く、ボルゴペラゴの修道院長の地位にあった。プッチーニはこの姉を通じて、女性が修道院に入るに至るには様々の隠されたいきさつがあることや、噂話に明け暮れる彼女たちの日常などに通じていた可能性もある[要出典][1]。プッチーニは「修道院の雰囲気を取材したい」として姉の元を訪問し[2]、その際、修道女たちを広間に集め、スケッチ段階の曲を自ら歌い、かつピアノを弾いたという。彼には「主人公がキリスト教で大罪とされる自殺を図る」という物語が受け入れられるだろうか、との懸念があったが、弾き語りを聴いた多くの修道女が感涙にむせぶのを見て、彼はこの作品の出来栄えに確信をもったと伝えられる。 修道院の描写をするにあたってプッチーニが依拠したもう一人は、旧友ピエトロ・パニケッリ神父である。以前にもプッチーニはこの神父に『トスカ』第1幕のテ・デウムの場面の典礼文作成、および同第3幕開始直後に用いる目的でローマ市街に響き渡るさまざまの教会の鐘の音色の採譜を依頼したことがある。この『アンジェリカ』でプッチーニは、フィナーレの奇蹟の場面で天使らによって歌われる聖母マリア賛歌のための適切なラテン語のテクスト選定を同神父に依頼している。 しかし、プッチーニはそれほど信仰心に篤い人間ではなく、こうした「修道院らしさ」の再現のための努力は単によりよい劇場効果を得るためだったようである[要出典]。実際プッチーニは、上述のパニケッリ神父の手になるラテン語詞文に曲を付けるに当たって、それを(不謹慎にも)「マドンナの行進曲」[3]と自ら称し、茶化したりもしている。 約50分 ピッコロ、フルート2、オーボエ2、イングリッシュ・ホルン、クラリネット2、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、バス・トロンボーン、ティンパニ(一人)、トライアングル、大太鼓、シンバル、グロッケンシュピール、チェレスタ、ハープ、弦5部。
原語曲名: Suor Angelica
原作: なし
台本: ジョヴァッキーノ・フォルツァーノ
初演: 1918年12月14日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にて、ロベルト・モランゾーニの指揮による
作曲の経緯
フォルツァーノの台本提供
修道院の雰囲気を求めて
主な登場人物
アンジェリカ(ソプラノ)、修道女。庭園の草花の世話係。
公爵夫人(メゾソプラノ)、その叔母。
合唱(舞台裏、混声)
演奏時間
楽器編成
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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