修道士
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聖大アントニウスイコン(作者不詳・ギリシャ正教

修道士(しゅうどうし、英語: Monk, ギリシア語: Μοναχ??, ラテン語: Monachus)というキリスト教用語には二つの語義・概念がある。ただし二つの概念は排他的概念ではなく包含関係にある(「1」の語義が「2」の語義より広義)。
修道誓願を立て禁欲的な信仰生活をする人、ことに男性のこと。女性の場合は「修道女」(英語: Nun, ギリシア語: Καλ?γρια, ラテン語: Monialis)という。結婚せず終身独身を貫く。多くの場合、修道院内で全生活を送る。西方教会では修道会に所属し、誓願と会の規則に従って生活する。他方、正教会東方諸教会では、修道会制度を持たない。カトリック教会では修道者ともいい、聖公会では修士と呼ばれる。
しかし、アッシジのフランチェスコドミニコなどとその後継者達(托鉢修道会)、また現代ではマザー・テレサのように、日常的に修道院外で活動し、市井で直接的に人々に奉仕を行うことを認められた修道士も存在する。ただし彼らも生活の単位は集団生活であることは変わりはない。
はたまた、聖アントニウスのように、砂漠などで孤独な生活を送る、隠修士[1]と呼ばれる者もいる。

上述のうち、助祭/輔祭以上の聖職者/神品叙階/叙聖を受けていない者のこと。英語圏および日本における西方教会では、男性の場合は「ブラザー」・女性は「シスター」と呼ばれる。女性は助祭や司祭にならないため、基本的にこの範疇に入る(スールないしソール、:S?ur とも)。カトリックでは修道会の中で司祭会員、修道士会員という名称で区別されることがある。

歴史ヌルシアの聖ベネディクトゥスフラ・アンジェリコ画)フランス革命時に閉鎖されたフォントヴロー修道院カトリック教会新致命者ワルワラ(ヴァルヴァラ・ヤコヴレヴァ、Varvara Yakovleva)。ロシア革命致命した正教会修道女

修道士は、修道誓願と剪髪(トンスラ)の式を行い[注 1]、禁欲的な修道生活を送る。西方教会ではさらに修道会に所属し、その規則に従うことが求められる。東方教会でも多く修道院に籍を置き、長老や院長・掌院の指導に従う。

起源は3世紀エジプトに遡る。当時のエジプトでは熱心な男性キリスト教徒たちが世俗を離れて砂漠で孤独な生活を送る習慣が生まれた。彼らは隠遁者、隠修士などと呼ばれたが、これが修道士の原型となった。聖大アントニウスがしばしばこの生活の創始者であるとされる。個人で生活していた隠遁者たちだが、徐々に信心業を集まって行うようになっていった。その中からさらに信心業だけでなく全生活を共に行うようになるグループが生まれていった。ここから修道院の原型ともいうべきものが生まれた。この生活はローマ帝国の東方に広まっていった。

6世紀に、ヌルシアのベネディクトゥスは東方で行われていた修道生活を西方に持ち込み、モンテ・カッシーノに修道院を開いた。ベネディクトゥスは修道生活の規定を成文化した『会則』を記したことで知られ、修道院長のもとに修道者たちが『会則』に従って生活するというスタイルは以降の修道生活における規範となった(ベネディクト会という修道会派の先駆け)。ベネディクトゥスに大きな影響を受けていたスコラスチカという女性は、ベネディクトゥスの『会則』に従って女子修道院を開いている。

また、それ以前の5世紀末には、パトリキウスアイルランドに伝道し、独自の修道制度を軸としたケルト系キリスト教が生まれ、さらにはコルンバヌスを筆頭とする多くのケルト系修道士がドイツオーストリアスイスなどに続々と伝道して修道院を建てた(w:Hiberno-Scottish mission)。しかし、ケルト系キリスト教が衰えローマ教皇の権力が増大すると、それらの多くはベネディクト会に改組された。

以後、西方の修道生活は修道会によって組織化されていくが、これに対し東方では修道士が修道院に自発的に集って生活するなかで修道がなされるという緩い連帯が維持され、東方教会正教会東方諸教会)には今日に至るまで修道会制度は存在しない。

11世紀東西教会が分裂した後も、修道生活は東方・西方の両教会においてそれぞれの形で保持されていった。西方教会においては、以後の歴史の中でさまざまな修道会が生まれ、消えていった。西欧の中世においては、大修道院の院長は世俗の封建領主諸侯と同様の権力を持つに至った。

ことに、中世盛期頃まで西方修道会のデファクトスタンダードであったベネディクト会は、「祈れ、働け」(英語版)(ラテン語: Ora et Labora)をモットーとしており、会士は修道院内で信仰生活だけでなく農業手工業などの作務を手がけた。このため、会士が糧とするパン作りや、その発酵技術を応用したワインミサには欠かせない)・ビール醸造、さらに、昔は薬として使われていたスピリッツ蒸溜ハーブの栽培・製薬やハーブリキュールの製造など、高度な技術を要する産業を、知識人集団として担っていた。しかし、その結果の蓄財と華美化は非難の的ともなり、幾度も修道院改革運動が起こった。

西方においては宗教改革の時代になると、世俗内禁欲が重視されて修道生活に対する批判が強まり、プロテスタントの間ではキリスト教の本来的な姿とは無関係なものと見なされた。プロテスタント運動の盛んな地域では修道院が破壊され、修道生活は見られなくなった。フランス革命とそれに前後する啓蒙専制主義の時代においても、修道院は旧体制の一部と見なされ、多くが破壊または解散された。この弾圧にはしばしば、修道院の財産の政府による没収が伴った。これには、修道院は世俗権力の法権や徴税権が及ばない特権組織で、さらに大修道院はしばしば周囲に領地と世俗領民を持つ封建領主であり、ローマ教皇庁治外法権地と財源になっていたという政治的・経済的な理由もある。聖公会は教義的な理由でカトリック教会とたもとをわかったわけではなかったので、ごく一部に修道生活が保持されたものの、特権は無くなった上に規模は王権により大幅に縮小され、近代になってから少しずつ復興された。


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