修辞学
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アリストテレスの著書については「弁論術 (アリストテレス)」をご覧ください。
演説の練習をするデモステネス弁論術』の著者アリストテレス

修辞学(しゅうじがく、: ρητορικ?, rh?torik?、: rhetorica、: rhetoric)は、弁論演説説得の技術に関する学問分野[1][2]。弁論術、雄弁術、説得術、レートリケー、レトリックともいう。

西洋に古くからある学問分野で、その起源は古代ギリシアにさかのぼる。中世ヨーロッパでは大学自由七科の一つに数えられた[3]

現代でいうレトリック修辞技法文彩)とはやや意味が異なり、基本的には弁論・演説の技術で、聴衆の説得・扇動・魅了を目的とするかなり政治的なもの。そのため修辞学では、聴衆を丸め込む心理操作の技術が大きな位置を占め、さらに演説者の身ぶり発声法なども重要視された。つまり、修辞学は文彩だけでなく、言語学・政治術・話術・演技論・感情分析・思考法などの総体だった。
歴史
古代ギリシア「弁論術 (アリストテレス)#予備知識」および「イソクラテス#背景」も参照

レートリケー(希: ρητορικ?)という学問は、紀元前5世紀ポリス社会のギリシアで生まれた。元々はシケリア法廷弁論において発達した技術であり[4]、創始者はコラクス(英語版)とその弟子のテイシアスとされる[5]。当時のギリシアでは、法廷だけでなくアゴラ(広場)やプニュクスアテナイ民会の政治演説台の丘)など、様々な場面で弁論・演説が行われていた。そのため、レートリケーを生業にするロゴグラポスや雄弁家(英語版)と呼ばれる人々がいた。なかでも、イソクラテスら当時のアッティカ地方(アテナイ周辺)で活躍した雄弁家たちは、「アッティカ十大雄弁家」として後世に語り継がれている。そのなかで、ソフィスト達はレートリケーを教育科目の一つとして世に広めていた。

哲学者プラトンは、そのような当時のレートリケーの流行に反発した。プラトンはその著作群(対話篇)のなかで、ソクラテスにレートリケーの手法ではなくディアレクティケー問答法弁証法)の手法で語らせることにより、真理正義の探求ではなく聴衆の誘導を目的とするレートリケーに対抗した。とくに『ゴルギアス』や『パイドロス』では、レートリケーを主題的に取り上げて批判している。

一方、アリストテレスは師匠のプラトンとは異なり、レートリケーとディアレクティケーを相通じる技術として捉えた。アリストテレスの著書『弁論術』では、先行する諸学説をまとめてレートリケーを体系化した。そのほか、『弁論術』の関連著作に『詩学』『トポス論』『ソフィスト的論駁について』『アレクサンドロス宛の弁論術』などがある。アリストテレスはレートリケーを論理学と似て非なるものと捉えていた(エンテュメーマ)。
古代ローマ「クインティリアヌス#『弁論家の教育』」も参照

アリストテレスやイソクラテスの影響のもと、古代ローマでも修辞学(羅: rhetorica)は流行した。とりわけ、キケロ『弁論家について(英語版)』『弁論家の最高種について』やクィンティリアヌス『弁論家の教育(英語版)』で修辞学が論じられた。ウェスパシアヌスおよびハドリアヌスからマルクス・アウレリウスの時代にかけては、修辞学教授の勅任制度も整備された[6]

修辞学の五分野が確立したのもこの時代である。すなわち、1「発想」(羅: Inventio, 演説テーマに応じた論法の型=トポスの蓄積)、2「配置」(Dispositio, 演説文の構成)、3「修辞」(Elocutio, 演説文の文彩)、4「記憶」(Memoria, 演説文の暗記)、5「発表」(Pronuntiatio, 演説の身ぶりや発声法)の五分野をさす[7]。(定訳は無い[8]。) なかでも「発想」すなわちトポスを蓄積するという営みは、中世ヨーロッパの教養の大部分を占めた。

またローマ帝国期には、「第二次ソフィスト思潮」すなわちアッティカ方言のギリシア語弁論を復興させる思潮も起きた。ただし、第二次ソフィストの弁論はショーとしての模擬弁論(デクラマティオ(英語版))であり、法廷弁論・議会弁論は当時すでに廃れていた[9]

ビザンツ帝国においても、コンスタンティノープル大学などで修辞学が扱われた(ビザンティン修辞学(英語版)、ビザンティン哲学)。
中近世

中世前期のヨーロッパでは、ボエティウスカペッラカッシオドルスらによって、修辞学が自由七科に取り込まれた。しかしながら、他の学科にその役割が奪われることにより、修辞学は次第に「文彩」に押し込められ始めた[10]

中世イスラム世界イスラム哲学においても修辞学は扱われた。とりわけ、アリストテレスの『弁論術』が他の著作と同様にファーラービーイブン・ルシュドに受容された。その後、12世紀ルネサンスを経てトマス・アクィナスにも受容された。『弁論術』はルネサンス期に度々印刷翻訳され、17世紀ホッブズに注目されたりした。[11]

14世紀ルネサンス期には、ペトラルカをはじめとする人文主義者によって、イソクラテスやキケロの伝統の復興が進められた[10]16世紀には、イエズス会の教育計画において修辞学が中心に位置付けられた[10]。近世にはそのほか、ヴィーコの思想において修辞学的な思考法が重要視されたり[12]ラモン・リュイやピエール・ラムス(英語版)、ジョルダーノ・ブルーノによって、上述の「記憶」(記憶術)が修辞学から半ば独立すると同時に、ヘルメス主義などと合わさって流行したりした[13][14]


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