修身
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本の初等教育について説明しています。中国の古典については「荀子」をご覧ください。

修身(しゅうしん)は、「身を修めること」を意味し、第二次世界大戦前の日本小学校[注釈 1]における科目の一つ。1890年(明治23年)の教育勅語発布から、1945年(昭和20年)の敗戦まで存在した。イギリス等の宗教教育戦後日本の道徳教育に相当するものである。個人主義自由主義物質主義の考えが増える中で[1]、いかに不良少年少女を減らすかが課題となった[要出典]。
概要

筆頭教科に位置付けられていたが、大戦終戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は国史地理と並んで修身を軍国主義教育とみなし、授業を停止する覚書きを出した。1950年代に入り、いわゆる「逆コース」の流れの中で、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが「道徳」である。
語源
明治期以前

四書五経の一つに数えられる『大学』に脩身の語がある[2]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}自天子以至庶人、壹是皆以脩身爲本。天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を脩むるを以て本と為す。—大学經一章、[3]
明治期

明治期に、モラルサイヤンス (Moral Science) を修身論と翻訳したのは福澤諭吉小幡篤次郎などの慶應義塾関係者である。明治元年の事と覺ゆ或日小幡篤次郎氏が.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}散歩(さんぽ)の途中(とちう)、書物屋(しよもつや)の店頭(みせさき)に一册の古本(ふるほん)を得たりとて塾に持歸(もちかへ)りて之を見れば米國出版(しゆつぱん)ウェーランド編纂(へんさん)のモラルサイヤンスと題(だい)したる原書にして表題(へうだい)は道徳論(だうとくろん)に相違(さうゐ)なし同志(どうし)打寄(うちよ)り先づ其目録(もくろく)に從て書中の此處彼處(こゝかしこ)を二三枚づゝ熟讀(じゆくどく)するに如何(いか)にも徳義(とくぎ)一偏(いつぺん)を論じたるものにして甚だ面白(おもしろ)し斯る出版書(しゆつぱんしよ)が米國にあると云へば一日も捨置(すてお)き難し早速(さつそく)購求(こうきう)せんとて横濱の洋書店(やうしよてん)丸屋に託(たく)して同本六十部ばかりを取寄(とりよ)せモラルサイヤンスの譯字(やくじ)に就ても樣々討議し遂に之を修身論(しうしんろん)と譯(やく)して直に塾(じゆく)の教塲(けうぢやう)に用ひたり—福澤諭吉、緒言、[4]

修身論の原著は、en:Francis Wayland, ⇒The Elements of Moral Science, (1835, 1856 ed.) Paperback: ISBN 0766174239/Hardcover: ISBN 0674246004 である。
比較

イギリス フランス 日本 ソ連
(現: ロシア) アメリカ合衆国
国民統合イングランド国教会フランス啓蒙主義国家神道ソ連型社会主義アメリカ独立宣言
理想ジェントルマンシトワイヤン華族(衰退)→良き日本人社会主義労働英雄アメリカン・ドリームの体現者
目的天国での永遠の命自由、平等、友愛子孫繁栄・皇運扶翼ソ連型社会主義の世界拡大[5]幸福追求

歴史
前史/江戸時代

上下定分の理を中心とする朱子学が幕府の正学となった。

1609年?1612年にかけて、岡本大八事件が起こり、1612年?1613年にかけて、西洋道徳であるキリスト教を禁じる禁教令が公布された。

1627年または1628年、中国において、仏教徒の鐘始聲が反キリスト教本の「闢邪集」を著し[6]、その中でキリスト教は仏教の粃糠を陰(ひそ)かに竊(ぬす)んだものであるとの説を立てた(仏教とキリスト教)。この本は、後に日本へと伝わった。

1634年より、寺請制度が始まり、仏教が大衆化する。

1637年より、キリシタンを中心に島原の乱が起きる。

1644年、明朝が滅亡し、大順が誕生するものの、により倒される。

1710年、儒学者の貝原益軒により、教育論の書である和俗童子訓が執筆された。

1715年頃、儒学者の新井白石は、西洋紀聞において西洋道徳であるキリスト教を批判し、鐘始聲の説は我を欺かないと述べた。また、中国に於いて明朝の滅びた理由の一つにキリスト教が挙げられていたことを引き、日本のキリスト教禁止は過防ではないとした。ただし、仏教の大衆化によってキリスト教を治めることについては、「虎をすすめて狼を駆る」ということになる恐れがなくもないと述べた。

1715年、道徳の乱れを理由に執筆された、気質物の浮世草子である世間子息気質が出版された。人生れて八歳より小学に入り、十有五にして大学にいたる古への法なり、今時の子供を見るに八歳にて煙管を咥へ、十有五にして死一倍をかつて傾城を請生す魂胆、是人たるものゝ道と思へり、宣なる哉、教ずして人生れながらに知ものにあらざれば、若子様ともてはやされて我侭に育ち、無性に高ふとまつて己が家業に心を寄せるは、至らぬかなと賎しめ、諸芸色遊びにかゝつて放埓に身を持つを、銀持の風俗は斯くこそと思ひ込んで、自ら非を改むる心はなくて、分際不相応の遊びに親の譲り銀を皆になし、昨日迄は大臣と呼し男、今日は太鼓の針立坊となつて、老て辛労する人あまたなり、是皆幼少より父子の礼儀たがひ、親は子に孝行をつくし、身の脂を出して設けてあてがひ、子は親を不粋なりと見くだし、今あの堅さでは世間はつとまりませぬ、随分異見致せど、誰に似てか片意地で直されぬに困ると、彼方此方に変つたる世間の息子気質、様々なる事を書き集めて、すぐに題号として梓に彫め、孝にすゝむる一助ならんかし ? [7]、世間子息気質 序

また、世間子息気質の中の一つに、実学を疎かにし、儒教を学ぶことにより身を崩す商人の息子の話がある。

親父尤もと点頭(うなず)き子息を呼び付け、汝学問立をして、商売の道を脇にするのは大きなる誤り、其上儒道を学ぶ者が、夕べも茶屋へ行きて夜半八つに帰り、己れが酒機嫌に任せ、湯の水のと寝て居る家来共を起し、たわけを尽すが儒者の教へか、論語読みの論語知らずめ、重ねて書物を止にして、帳合を大事に掛けよと、額に皺を寄せて叱からるゝ詞の下から、子息は又物知顔を止めず、父為レ子隠子為レ父隠直在二其中一といふは孔子の語なり、父の罪をば子として隠し、子の罪をば父として隠すは、親子自然の道理にして、人の心の至極せる所なり、道理に従ふを直とす、然るに今手代大勢聴く前にして、茶屋狂ひする子の罪を顕はし玉ふは道理に背むけり、如何んぞ直とせんやと云へば、親父苦々しい顔にて、猪口か皿か知らぬが其の陳ぷん漢ぷんが家業の妨げじや、仮名で算盤稽古召されよと、教訓を致されぬ、 ? 世間子息気質 二之巻 第一 異見はきかぬ薬心を直さぬ医者形気[7]

1716年、徳川吉宗が8代将軍となり、実学を奨励して、実学として蘭学を取り入れたが、西洋道徳であるキリスト教は排除した。

1739年、商人の石田梅岩が都鄙問答を著して、石門心学が広まった。

1790年、幕府は、風俗の崩れを理由に寛政異学の禁を行い、儒教の古学を禁止し、朱子学を復興した。

幕末まで、開国論者は和魂洋才の思想を持っていた[8]

佐久間象山「東洋道徳・西洋芸術のふたつを学び人民に恩恵を与え国恩にむくいる」

橋本左内「器械芸術は彼にとれ、仁義礼智は我に存す」

横井小楠「堯舜孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くさば、何ぞ富国に止まらん、何ぞ強兵に止まらん、大義を四海に布かんのみ」

なお、西洋においては、自然科学と合理主義の台頭により、啓蒙思想が広まり、キリスト教が変容していった。
教育勅語以前
学制以前

明治維新により日本は五箇条の御誓文による開国進取の国是を採用した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:76 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef