修羅の門
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この項目では、漫画について説明しています。小沢仁志主演のオリジナルビデオについては「極道の門」をご覧ください。

修羅の門
ジャンル格闘漫画
漫画:修羅の門
作者川原正敏
出版社講談社
掲載誌月刊少年マガジン
レーベル講談社コミックス月刊マガジン
講談社漫画文庫
発表号1987年5月号 - 1996年12月号
巻数全31巻
全15巻(文庫)
話数全105話
漫画:修羅の門 第弐門
作者川原正敏
出版社講談社
掲載誌月刊少年マガジン
レーベル講談社コミックス月刊マガジン
発表号2010年11月号 - 2015年7月号
巻数全18巻
テンプレート - ノート
プロジェクト漫画
ポータル漫画

『修羅の門』(しゅらのもん)は、川原正敏による日本漫画作品。千年に渡り不敗を誇るとされる架空の古武術陸奥圓明流の継承者である陸奥九十九(むつ つくも)を主人公とし、陸奥圓明流が地上最強である事を証明する為、彼が様々な強敵達と闘う様を描く格闘漫画

月刊少年マガジン』(講談社)に於いて1987年5月号から1996年12月号まで連載の後に長期休載。2010年11月号より『修羅の門 第弐門』(しゅらのもん だいにもん)として連載を再開し、2015年7月号を以て完結した。

1990年、第14回講談社漫画賞少年部門受賞作。2010年8月時点で累計発行部数は3000万部を突破している[1]
連載経緯

前作『あした青空』において描かれた格闘シーンが好評を得た事により、連載終了後に改めて格闘漫画を描く事を編集部から打診され、本作が制作される運びとなった[2]。日本を舞台に第一部で実戦空手との対戦、第二部で異種格闘技大会を描いた後、第三部では舞台をアメリカに移しプロボクシングへの挑戦、第四部ではブラジルに舞台を移して世界規模での総合格闘技大会を描いている。

しかし第四部を連載中、ストーリーの展開や描写に読者から否定的な意見が多く寄せられた(後述)。この反応に川原は落胆し、第四部完結をもって無期限の連載休止とする事を発表[3]。第31巻の巻末でその顛末や、川原自らの心境が綴られている。川原の弁によると、陸奥圓明流という「人殺しの技」の使い手を敢えて主人公として描き、人を守る為の活人拳に対するアンチテーゼに据えて様々な疑問を提唱する事が本作の主題だったという。しかし第四部終盤(後述)の描写について「殺人を実行出来る人間こそが強者であるという理屈は間違っており、そのような描写は控えるべきだ」という旨の投書が届き、川原は「10年以上同じテーマを描き続けてきたのに、それでも伝わらなかったのか」と愕然とし、筆を置く決心をしたと述べている。

この後、川原は休筆中に受けたインタビュー内で「何だか疲れてしまった。格闘技について自分が描きたい事は大体描いたし、『修羅の門』は自分の中のものを出し尽くした感がある」と語るなど連載再開について消極的とも取れる発言をしている。その後『海皇紀』が好評を受け長期連載となり、『修羅の門』は事実上完結した作品として認知される様になった。

しかし川原が抱いていた読者に対する責任感と、『海皇紀』内で格闘を描いた[注 1]事によって再び人間対人間のぶつかり合いを描ける様に感じた事から、『海皇紀』終了後に第四部終了から14年を経て連載を再開する事が決定された[4]。連載再開は『修羅の門 第弐門』と改題の上で行われ、また現実で過ぎた14年と作品内の時間がダイレクトに繋がらない事を考慮して第四部の直接の続きとはせず[4]、4部終了時の約3年後から再開している。
評価

1990年(平成2年)に、川原は本作で第14回講談社漫画賞少年部門を受賞している。

同じく格闘漫画を執筆している板垣恵介は、第四部について「グレイシー柔術を食い散らかさず、骨まで残さない描き方をしていて感激した」とその内容を絶賛している[5]
初出・収録

初出はいずれも講談社の『月刊少年マガジン』。

第一編となる「修羅の門」は全四部で構成されており、1987年5月号から1996年12月号まで連載された。この間に川原は『週刊少年マガジン』(講談社)で「ヒーロー」の連載を本作と並行して行う等様々な作品を発表しており、1989年以降は本作の外伝「修羅の刻」を、本作との同時掲載や本作を休載しての連載等の形によって同じく『月刊少年マガジン』誌上で並行して断続的に発表している。

第四部終了後、『修羅の門』は再開未定の形で連載を休止し、「修羅の刻 源義経編」の連載を経て13年に及ぶ長期連載となった「海皇紀」の連載が開始される。そして「海皇紀」完結と同年の2010年11月号より、「修羅の門 第弐門」と改題し連載が再開された。「第弐門」開始の翌月からは、川原が原作を担当した本作の異伝サッカー漫画「ふでかげ」が、飛永宏之の作画によって同じく『月刊少年マガジン』誌上で隔月で連載を開始し、本作との同時連載となっている。

単行本は〈講談社コミックス月刊マガジン (KCGM) 〉より『修羅の門』が全31巻、『修羅の門 第弐門』が全18巻発行されている。また『修羅の門』は講談社漫画文庫より文庫版が全15巻刊行されている。(各巻の書誌情報については#書誌情報を参照。)
部別の掲載時期一覧



2011年9月現在。

収録巻はKCGM版単行本への収録を示す

壱:『修羅の門』

弐:『修羅の門 第弐門』


同時期に発表された作品の内『月刊少年マガジン』に掲載された作品については以下の形で掲載方法を略記する。

同時:「修羅の門」と同時掲載

休載:「修羅の門」を休載し該当作品を掲載

タイトルと部対応話話数掲載号収録巻同時期に発表された作品・備考
修羅の門第一部第一話 - 第十話10
1987年5月号 - 1988年2月号壱1 - 3

「エンジェル」『フレッシュマガジン』1988年ニューイヤー増刊号

第二部第十一話 - 第三十九話291988年3月号 - 1990年7月号壱3 - 10

「ヒーロー」『週刊少年マガジン』1988年42号 - 1989年1・2号(並行連載)

修羅の刻 宮本武蔵編」1989年7月号、1990年1月号・2月号(同時)

修羅の刻 風雲幕末編(前半)1990年8月号・9月号?「修羅の門」一時休載
第三部第四十話 - 第七十四話351990年10月号 - 1993年10月号壱11 - 21

修羅の刻 風雲幕末編」(後半)1991年8月号(同時)・9月号(休載)

「疾風のマウンド」1992年6月号(同時、作画:きむらみつお)

修羅の刻 アメリカ西部編」1992年10月号(休載)

「夢の球譜」『マガジンGREAT』1992年9月号(作画:きむらみつお)

修羅の刻 寛永御前試合編1993年11月号 - 1994年3月号?「修羅の門」一時休載
第四部第七十五話 - 第百五話311994年4月号 - 1996年12月号壱21 - 31
修羅の刻 源義経編1997年1月号 - 12月号?「修羅の門」無期限休載
海皇紀 1998年3月号 - 2010年8月号(休載期間を含む)?
修羅の刻 織田信長編 2001年9月号 - 2002年4月号?
修羅の刻 西郷四郎編 2003年10月号 - 2003年11月号?
修羅の刻 雷電爲右衞門編 2005年9月号 - 2005年11月号?
修羅の門 第弐門第一話 - 連載完ー2010年11月号 - 2015年7月号弐1 - 18

ふでかげ」2010年12月号 - 2014年12月号(隔月同時、作画:飛永宏之)

修羅の刻 昭和編 ?

あらすじ
修羅の門
第一部
千年不敗を誇る古武術・
陸奥圓明流の使い手である陸奥九十九は、「神武館をぶっ倒してこい[6]」という祖父の言葉により上京し、実戦空手の総本山である神武館の本部道場へと向かおうとする。その途中道に迷い、偶然通り掛かった神武館館長の孫娘・龍造寺舞子に声を掛け道場へと案内してもらう。九十九が道場へと到着すると、そこでは道場破り毅波秀明が看板を持ち帰ろうとしていた。実力差を痛感しながらも武門の娘として毅波と闘おうとする舞子を下がらせ、九十九は毅波と闘い勝利する。そしてその場に現れた神武館館長龍造寺徹心に祖父の手紙を渡してその意を伝え、道場に居候を始める。


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