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『修禅寺物語』(しゅぜんじものがたり)は、岡本綺堂作の戯曲。1幕3場。鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の死を背景に、伊豆修禅寺の面作り・夜叉王の名人気質を描いた作品。 岡本が修禅寺の寺宝の頼家の面と称する古い面を見て創作したもので、歌舞伎の伝統を生かしながら、新鮮味を盛った作として岡本の出世作となり、新歌舞伎の代表作ともなった。1911年(明治44年)1月に『文芸倶楽部』に発表。同年5月、明治座で2世 市川左団次らにより初演。1928年(昭和3年)の左団次の訪露公演の演目にも加えられ、左団次の「杏花戯曲十種」の一つとなった。広く海外にも翻訳紹介されている。 1918年には岡本自身の手によって小説化されている他、何度も映画化やテレビドラマ化がされている。 夜叉王の娘・かつらとかえでが紙作りの作業をしている。かつらは、名声を避けて伊豆の片田舎に隠れ住む父との暮らしを嘆き、将軍家のような貴人への側仕えを夢見ている。たしなめるかえでに対し、「職人風情の妻で満足しているお前にはわかるまい」と嘯いたことで、それを聞いた春彦と口論になり、仕事場から現れた夜叉王が2人を止める。夜叉王は春彦に、姉のかつらは都で宮仕えをしていた亡き母に似て気位が高く、妹のかえでは父である自分に似たのだろう、と話す。 そこへ、修禅寺の僧と下田五郎景安を従えた源頼家がやってくる。自分に似せた面を作るよう命じたにもかかわらず、半年たっても献上されないので、お忍びで督促に来たのだ。面が完成しない理由を問い詰められた夜叉王は、自分の中に力がみなぎって流れるように打つのでなければ面は打てない、いつ完成するかは約束できない、と答える。怒った頼家が五郎に預けた刀を抜こうとすると、かえでが家の奥から試作の面を持ち出し、かつらが頼家に差し出す。夜叉王は「死人の相が出ている」とためらうが、頼家主従は面の出来栄えを絶賛する。さらに頼家は、かつらに眼を向けて自分に奉公するよう伝える。貴人への側仕えを願っていたかつらは、喜んで従う。 追って褒美の沙汰をする旨を伝え、頼家主従は面とかつらを携えて帰っていく。夜叉王は、納得できない作品を将軍家へ献上してしまったことに耐え切れず、面打ちを辞める覚悟で、今まで作ってきた面を打ち砕こうとする。かえでは、「どんな名人でも、出来不出来は時の運」「一生のうち一度でも名作ができれば、それが名人」と、父をなだめる。 同じ日の宵、桂川のほとり。 修禅寺の僧と下田五郎を先に帰らせ、頼家とかつらは桂川のほとりに残る。鎌倉を離れて寂しい伊豆の夜を過ごす頼家を気遣うかつらに、頼家は「鎌倉は、上辺はきらびやかだが、人間の住むべきところではない」と話す。権力闘争に翻弄され、愛する側室・若狭局を失い、伊豆へと追われた頼家は、この地で心安らかに過ごすことを望んでいるが、常に命を狙われる恐怖に脅かされていた。そのような日々の中で、かつらとの新たな恋を得た喜びから、頼家はかつらに「若狭局」の名乗りを与える。 そこに金窪兵衛尉行親が、鎌倉からご機嫌伺いに参上した、と称して現れる。かつらを見とがめる行親に対し、頼家は「若狭局」の名乗りを与えたことを伝える。行親は、鎌倉へ相談もなく勝手な行動をとったと非難するが、かつらと頼家は取り合うことなく去っていく。ひとり残った行親の周りに武装した兵が集まってくる。
概要
登場人物
夜叉王
面作師(おもてつくりし、面打ち職人)
かつら
夜叉王の長女、二十歳。
かえで
夜叉王の次女、十八歳。
春彦
かえでの婿、面作師、二十余歳。
源頼家
前の鎌倉幕府将軍、二十三歳。
下田五郎景安
頼家に仕える武士、十七・八歳。
金窪兵衛尉行親
鎌倉からやってきた武士、三十余歳。
修禅寺の僧
行親の家来
あらすじ
第一場
第二場
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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