修学旅行
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教育旅行全般については「教育旅行」をご覧ください。

卒業旅行」とは異なります。

修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本の初等教育中等教育の諸学校(特別支援学校を含む)における学校行事教育課程)の一つとして、教職員の引率のもとに児童、生徒が集団で見学・研修等をするための宿泊を伴う旅行。特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足社会科見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。広義の校外学習(または校外教育)の一種。修学旅行の風景の一例(山口県秋吉台
概要

学習指導要領においては、特別活動のうちの学校行事の一つとして、小学校では「遠足・集団宿泊的行事」、中学校及び高等学校では「旅行・集団宿泊的行事」に分類され、共通のねらいとして「平素と異なる生活環境にあって、見聞を広め、自然や文化などに親しむとともに、よりよい人間関係を築くなどの集団生活の在り方や公衆道徳などについての体験を積むことができるようにすること」[1]とされている。

主に学年単位で実施され、多くは最終学年で行われるが、中学校や高等学校では2年時に行われることも多い(最終学年は入学試験入社試験など進路に関わる行事が控えているため)。

学校行事としての修学旅行の始まりは明治時代に遡る。その実質的な歴史的起源は、1886年(明治19年)2月に東京師範学校(現・筑波大学)が実施した「長途遠足」であり、「修学旅行」という名称[注釈 1]も、同校が1886年中に独自に使用しはじめた造語である。

日本以外では、台湾韓国に日本の統治時代(植民地教育)の名残として存在し、中国でも実施されている[2]ヨーロッパ諸国などでも泊まりがけの旅行は学校行事として存在し、ドイツ・ベルリンの学生たちがポーランドの海岸で1週間を過ごすことを背景とした映画『同級生の旅行(ドイツ語版)』(2002年)も制作されている。
歴史

近代教育史上、類似する校外学習的事例としては、1877年(明治10年)の設立当初から東京大学で実施されていた各学部教員・生徒らによる動植物採集・地質調査・貝塚発掘などの専門教育としての「実地研究旅行」[3]や、1881年(明治14年)に栃木県第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の生徒らが教員の引率で第二回内国勧業博覧会(東京・上野公園)を観覧した[要出典]という単発的事例などがあるが、定期的な学校行事として、今日に至る「修学旅行の嚆矢」[4]とされているのは、兵式体操導入[5]を契機として実施された東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)による軍隊式の「長途遠足」である。

この遠足については、当時の新聞や教育雑誌で多くの事前事後報道がなされ[注釈 2]、『大日本教育会雑誌』第30号(1886年4月)掲載の最も整備された報告日誌「東京師範学校生徒長途遠足」によれば、1886年(明治19年)2月15日?25日、同校男子師範生徒99名は「戎装」=軍装で、「銃器及ヒ背嚢外套毛布ヲ附着シ、数部ノ兵書及ヒ靴、靴下シャツノ着代ヘ等数品」を携えて、東京?千葉県銚子間を往復行軍したという(兵式及び学術教員[注釈 3]・職員を含め総勢121名)。その実施にいたる経緯は[6]、同校監督を兼任した初代文部大臣森有礼による師範教育改革において、兵式体操などの軍隊的規律訓練が過度に導入されることに抵抗した高嶺秀夫校長及び教員らが、当初予定されていた行軍・発火演習[注釈 4]に「諸学科ヲ実地ニ研究」する要素(気象観測・測量・動植物採集・写生・名所見学・貝塚採集・学校参観など)を採り入れたとされる。それら実地研究は、当時の教員らにとっては各専門領域の基礎的実習であり[注釈 5]、また高嶺秀夫が主導していた開発主義教育(実物教授)によって必然化された方法的実践であり、かつ教材としての実物資料の発見収集という当時の師範教育特有の技術的実習[7]を兼ねていた。明治大学高等予科の修学旅行
(1904年11月、日光東照宮門前)京都市立第一工業学校の修学旅行
(1933年、平壌玄武門)山口高等女学校高等科の修学旅行


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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