修二会
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東大寺二月堂の修二会(お松明)

修二会[1](しゅにえ)は、毎年2月に日本仏教寺院で行われる法会のひとつで、修二月会ともいう。なお、修正会[2](しゅしょうえ)は正月に行われる法会なので異なる。
概要

古くは旧暦1月に行われた法会である。農耕を行う日本では年の初めに順調と豊作を祈る祈年祭(としごいまつり)が重要視され、神や祖霊の力で豊年を招き災いを遠ざけようとする。養老令にも記載され、8世紀には国の重要行事とされていたが、修二会は祈年祭に対応した仏教の行事として形成され定着した行事である。奈良時代に主要な寺で始まり、光明皇后の役所も兼ねた宮殿紫微中台でも行われ、平安時代984年には修二会が山里の村々の寺の重要な行事として、造花を飾り香を焚き仏前を飾り祈っていた『三宝絵詞』の記録がある。その後も日本全国の寺でさまざまな形式で修二会や修正会は行われているが、奈良古寺で行われるものが著名で、特に東大寺二月堂の修二会は「お水取り」の通称で知られる。また薬師寺の修二会は「花会式」の通称で知られる。他に法隆寺西円堂で行われるもの、長谷寺で行われるものがある。これら南都諸宗の修二会を下記で取り上げるが、これらの他にも真言宗や天台宗の古寺で行われている。これらの修二会は奈良時代半ばの8世紀に成立した悔過作法である。それぞれの本尊別に確立したもので、本尊の名前が付いているが、これは大乗仏教の側面を持ち本尊に対するこれら悔過・懺悔をすることは自己の修行だけでなく、いっさいの人々と社会に向けて、世の人たちの救済と利益(りやく)につながるものとされる。このため浄行する僧侶を選び、あらゆる人々が犯した罪を許してもらうため、心身を清め本尊に対して礼拝行を行い、1日6回本尊の周囲を巡る行道をして仏の徳をほめ讃えて礼拝する行を毎日繰り返す。苦行の面を持つ。[3]
東大寺修二会(お水取り)水取りや 氷の僧の 沓の音芭蕉火をつける前のお松明

お水取り」として知られている東大寺の修二会は、十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)だが、8世紀半ばからの悔過作法だけでなくその後に古密教や神道や修験道民間習俗や外来の要素まで加えて大規模で多面的なものとして行われている[4]。その本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。
起源

伝説では、『二月堂縁起絵巻』(天文14年1545年)によると、天平勝宝3年(751年)東大寺の開山、良弁の弟子の実忠笠置山で修行中に、竜穴を見つけ入ると、天人の住む天界(兜率天)に至り、そこにある常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずるのを見て、これを下界でも行いたいと願った。しかし兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないと天人の1人に言われた。それで、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行うと念願したという。

東大寺要録』(嘉承元年1106年)によると、実忠和尚が二月堂を創建し、初めての東大寺の十一面悔過が天平勝宝4年(752年)2月1日から14日間行われたと伝えられる。堀池春峰は、実忠はまだ20代で役職も低く行は寺全体のものではありえないと指摘し、さらに正倉院宝物の創建初期の「東大寺四至図」(天平勝宝8歳756年6月9日作成)に、「二月堂」記載が無いと実忠の創始と二月堂の創建を否定し、紫微中台の「十一面悔過所」の行に実忠は関与しただけであり、光明皇后の天平宝字4年760年の没後移設して二月堂になったとする説を唱えた[5]。だが建築史家山岸常人により、「東大寺四至図」には若狭井の位置に既に「井」の印があり現在の二月堂敷地の南西角付近にあたる場所に□印が記載され、3間2面の小堂だったため堂名を記さず記号で表記したと実忠創建と創始を補強し、実忠と弟子たちの行が、実忠が要職に上がるとともに寺全体のものとなったという見解も反論された[6]
練行衆

修二会を行う行者は練行衆と呼ばれる11人の僧侶で、三役や仲間(ちゅうげん)、童子(大人である)と呼ばれる人達がこれを補佐する。「練行衆」の僧侶の任命は毎年、東大寺初代別当良弁僧正の御忌日にあたる12月16日早朝、法要開始前に華厳宗管長から発表される。

練行衆のうちでも特に四職(ししき)と呼ばれる4人は上席に当る。四職は次の通りである。

和上(わじょう) 練行衆に授戒を行う。

大導師(だいどうし) 行法の趣旨を述べ、祈願を行う。事実上の総責任者。通称「導師さん」

咒師(しゅし) 密教的修法を行う。

堂司(どうつかさ)行事の進行と庶務的な仕事を行う。通称「お司」

これ以外の練行衆は「平衆(ひらしゅ)」と呼ばれる。

平衆は次の通り。

北座衆之一(きたざしゅのいち):平衆の主席。

南座衆之一(なんざしゅのいち):平衆の次席。

北座衆之二(きたざしゅのに)

南座衆之二(なんざしゅのに)

中灯(ちゅうどう):書記役。

権処世界(ごんしょせかい):処世界の補佐役。通称「権処さん」

処世界(しょせかい):平衆の末席。法要の雑用役[7]

また練行衆を三役(堂童子(どうどうじ)、小綱兼木守(しょうこうけんこもり)、駆士(くし))と、童子、仲間(ちゅうげん)、加供(かく)の随伴緒役の人々が支え、行事を進行させてゆく[8]
別火

3月1日の本行に入る前に「別火」と呼ばれる前行がある。戒壇院の庫裡(別火坊)で練行衆が精進潔斎して合宿生活を行うのである。世間の火をいっさい用いず、火打ち石でおこした特別の火だけを利用して生活するのでこのように言われる。

初めての練行衆(新入 しんにゅう)と初めて大導師をつとめる人は2月15日から、それ以外の練行衆は2月20日から別火に入る。別火には「試別火」(ころべっか)と「総別火」(そうべっか)の二つの期間がある。試別火の期間は5日(新大導師は10日)であとは「総別火」に入る。

試別火の期間は自坊に物をとりに行く程度は許されているが、勝手な飲食も火にあたることもできない。境内の外に出てもならない。かつては自坊で行ったが、妻帯するようになってから合宿するようになった。

2月21日は「社参」が行われ、新入を除く練行衆が和上を先頭に列を作り、八幡殿、大仏殿、天皇殿、開山堂に参詣し、行の安全を祈願する。途中4箇所で平衆がほら貝を吹く。また、この日、二月堂の湯屋で、「試みの湯」が行われる。「例年の如く御加行なさりょうずるで候や」と問われ、修二会に参加する覚悟を固めるてから入浴する。

2月23日には「花拵え」「燈心揃え」が行われる。東大寺修二会では仏前に供える花として造花(椿と南天)を作る。また、この日、灯明に用いる燈芯を作る。この二つの作業に練行衆、三役らが総出で行い、椿400個、南天50個、多くの燈芯を用意する。2月24日には上七日に仏前に供えられる壇供(だんぐ)と呼ばれる厚さ3cm直径15cm程の餅を1000個つく(3月5日にも同数の檀供が下七日の為につかれる)。

試別火の期間中、本行に備えて法具を準備したり、夜は声明(節をつけて経を読む)の練習をする。声明の節は複雑で、すべて暗記せねばならず、特に新入にとっては大変な仕事である。

2月25日(閏年26日)の社参は娑婆との別れの意味を含む。

総別火に入るのは2月26日で、順次入浴し、紙衣(紙で作った衣)を着る。紙衣は清浄な物と考えられており、行の期間中はこれを着続ける。この期間中は別火坊の大広間のテシマゴザという清浄なゴザのうえ以外に座ってはならず、私語は許されず、火の気は一切ない。湯や茶を勝手に飲むことができず、土の上に降りてはならない。

椿の造花を枝に指したり、紙衣の上に重衣という墨染めの衣を初めて着る「衣の祝儀(2月27日)」などがおこなわれる。また夕刻ほら貝の吹きあわせもする。夜は声明の練習である。

2月の末日になると、戒壇院の別火坊から本行の行われる二月堂に移動するためあわただしくなる。各種の法具などは香の煙をたきしめて清める「香薫」をしてから外に運び出す。最後に大広間で「大懺悔(おおいさんげ)」を唱えてから、練行衆は二月堂に移る。本行のはじまりである。
本行に入る 

本行の間に練行衆が寝泊まりするのは二月堂の北側、「登廊」と呼ばれる石段の下の「食堂(じきどう)」・「参籠宿所」と呼ばれる細長い建物である。この建物は鎌倉から室町時代に建てられた重要文化財である。

宿所入り(2月28日。閏年は29日)の夕方、「大中臣の祓い」が行われる。咒師が大中臣祓詞を黙誦し、御幣で練行衆を清める。神道の行事である。東大寺修二会には神道的要素が多く含まれている。

3月1日の深夜1時から「授戒」が行われる。戒を授けるのは和上で、和上は食堂の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)に向かって自誓自戒した後、練行衆全員に守るべき八斎戒(殺生、盗み、女性に接することなど)を一条ずつ読み聞かせて「よく保つや否や」と問いかける。大導師以下、練行衆は床から降り、しゃがんで合掌し、戒の一つ一つに対して「よく保つ、よく保つ、よく保つ」と三遍誓う。なお3月8日にも改めて授戒が行われる。

受戒が終わると、1時40分、「ただいま上堂、ただいま上堂」のかけ声にあわせて練行衆は一団となって二月堂に上堂し、木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす。これを開白上堂という。内陣の錠があけられ、扉が開くと、練行衆は内陣にかけいり、須弥壇の周囲を3周し、本尊を礼拝し、内陣の掃除や須弥壇の飾り付けを行う。

2時15分ごろ、二月堂内の明かりがすべて消され、扉が閉ざされる。堂童子が火打ち石を切り、火をおこす。この火を一徳火といい、常燈の火種とされる。

2時30分、初めての悔過法要(開白法要)が行われる。これは3時頃終わり、就寝となる。

明けて正午になると鐘が鳴らされ食堂で「食作法(じきさほう)」が行われる。正午から約30分、大導師が信者の息災、過去者の成仏などを祈願したあと、一汁一菜または二菜の食事(正食)をとる。その給仕の作法は独特のものである。正食の後はその日は食事をとってはならない。この作法は本行の間、連日続く。

二月堂の本尊は「大観音」「小観音」と呼ばれる二体の十一面観音像で、いずれも絶対の秘仏で練行衆も見ることができない。
悔過法要

この行事の中心部分である。

本行の期間中、日に六回(六時という)、十一面悔過法が行われる。6回の法要にはそれぞれ名前があり、「日中(にっちゅう)」「日没(にちもつ)」「初夜(しょや)」「半夜(はんや)」「後夜(ごや)」「晨朝(じんじょう)」と呼ばれる。


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