信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである[1]。 この用語はアメリカの文芸評論家ウェイン・ブース(Wayne C. Booth)の1961年の著書『フィクションの修辞学』[1][2](The Rhetoric of Fiction
概要
信頼できない語り手の現れる語りは、普通一人称小説[注 1]であるが、三人称小説[注 2]の語り手も、限られた視点からの情報を語ることなどによって信頼できない語り手となることがある[3]。読者が語り手を信頼できなくなる理由は、語り手の心の不安定さや精神疾患、強い偏見、自己欺瞞、記憶のあいまいさ、酩酊、知識の欠如、出来事の全てを知り得ない限られた視点、その他語り手が観客や読者を騙そうとする企みや、劇中劇、妄想、夢などで複雑に入り組んだ視点になっているなどがある。
語り手の信頼度には、『白鯨』の信頼の置けそうなイシュメールから、ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』における複数の語り手たち、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』におけるハンバート教授まで大きな幅があるが、全ての語り手は一人称小説であれ三人称小説であれ、知識や知覚の限界があることから信頼できないともいえる。
語り手の陥っている状態は、物語の開始と同時にすぐ明らかになることもある。例えば、語り手の話す内容が最初から誤っていることが読者にも分かるようになっていたり、錯覚や精神病などである。この手法は物語をよりドラマチックにするため、劇中で明かされることが多いが、語り手の信頼できるか否かが最後まで明らかにされず、謎が残されたままの場合もある。 ウェイン・ブースは「信頼できない語り」に対して読者に焦点を置いた研究方法を公式化した初期の批評家であった。信頼できる語り手と信頼できない語り手を区別するのに、語り手の語りが社会の一般的な規範や価値観に準拠しているか、違反しているかどうかを根拠にしようとした。彼は「語り手が作品内の規範(それはいわば、暗黙の著者
定義と理論的アプローチ
ラビノウィッツの論の主な焦点はフィクションの中の言説の地位であり、事実性ではない。彼はあらゆる文学作品の受け手の役をする読者を4つに分類し、フィクション内の真実についての問題を論じている。
1. 実際の読者(Actual audience)本を読む、肉体を持つ現実世界の人々
2. 著者の読者(Authorial audience)現実世界の著者が書くテクストの宛先である、架空の読者
3. 物語の読者(Narrative audience)詳しい知識を所有する、模造された読者。
物語内の「語り手」に対する、物語内の「聞き手」
4. 理想の物語の読者(Ideal narrative audience)語り手の言うことを受け入れてくれる、批判的でない読者
ラビノウィッツは、「小説の本来の解読において、紹介される出来事は同時に「真実」であり「非真実」であると必ず扱われる。この二重性を理解する方法はたくさんあるが、それが生み出す四種類の読者を分析することを提案したい」と述べている[4]。同様に、タマル・ヤコビ(Tamar Yacobi)は語り手が信頼できないかどうかを決める五つの基準のモデル(統合のメカニズム)を提案している[5]。アンスガー・ニュニング(Ansgar Nunning)は、暗黙の著者の置いた仕掛けに依存したり、信頼できない語りについてのテキスト中心の分析をしたりする代わりに、語りの信頼できなさはフレーム理論(frame theory)の文脈や読者の認知戦略の文脈から新たに概念化できるという根拠を示している[6]。信頼できない語りは、この観点からみれば読者がテキストに意味を持たせようという戦略、つまり語り手の叙述の不一致点を調和させようという戦略になる。ニュニングは個人の意見に左右される価値判断に依存して信頼性を判断することを効果的に排除している。 信頼できない語り手を分類する試みには、ウィリアム・リガン(William Riggan)による1981年の研究がある。これは信頼の低い語りのなかでももっとも一般的な一人称視点の語り手に焦点を当てたものである[7]。彼は次のような分類を行った。 読者や他の登場人物を騙そうとする人物は、信頼できない語り手である。 アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』は、探偵と行動を共にする語り手の書いた手記という形式になっているが、実は語り手が犯人だったというトリックが成り立っている。語り手は嘘は書いていないものの、殺人を犯した決定的な瞬間は曖昧に書いている。こうしたトリック(叙述トリック)は、発表当時に一部からアンフェアだと批判されたが、現在ではよく利用されている。 日本では横溝正史の『蝶々殺人事件』『夜歩く』、高木彬光の『能面殺人事件』、栗本薫の『ぼくらの時代』などで「語り手(事件の記述者)=犯人」という形式を採用している。 1995年の映画『ユージュアル・サスペクツ』では、警察に尋問される容疑者が「信頼できない語り手」となっている。容疑者は、カイザー・ソゼと呼ばれる謎の犯罪者の事件の詳細を語るが、映画の最後で、それらが即興ででっちあげたものであり、カイザー・ソゼの正体は彼自身であったことが示唆されて終わる。 『シャーロック・ホームズシリーズ』の主な語り手であるジョン・H・ワトスンは誠実な人物として描かれるが、事件の描写についての正確性をシャーロック・ホームズから疑問視される事がある[注 4]。
信頼できない語り手の例
悪党(Picaro)
誇張や自慢の激しい語り手である。古代ローマの劇作家プラウトゥスの喜劇『ほらふき兵士
狂人(Madman)
自我が不安に陥るのを防ぐために感情を抑圧したり、軽い解離や離人症に陥ったりするなど、防衛機制を働かせているだけの語り手もいれば、統合失調症や偏執病に陥るなど重度のパーソナリティ障害に陥っている語り手もある。自己疎外に陥っているフランツ・カフカの小説の語り手や、タフでシニカルな語りをすることで自分の感情を隠そうとするノワール小説やハードボイルドの語り手も含まれる。
道化(Clown)
自分の語りを真剣に受け止めず、対話や真実といったものを意識的にもてあそび、読者の期待を翻弄する語り手である。『トリストラム・シャンディ』の語り手が例に挙げられる。
世間知らず(Naif)
ものごとの認知が未熟な語り手や、ものごとの認知に限界のある視点に立つ語り手などである。『ハックルベリー・フィンの冒険』や『ライ麦畑でつかまえて』の語り手が例に挙げられる。
嘘つき(Liar)
健全な認知力をもつ成熟した人物だが、過去の不穏当な行動や信用に傷をつけるような行動をあいまいにするため、わざと自分自身のことを事実を曲げて語るような語り手である。フォード・マドックス・フォードの『かくも悲しい話を… 情熱と受難の物語(英語版)』が例として挙げられる。
読者を騙す語り手