信達軌道
[Wikipedia|▼Menu]

飯坂東線(いいざかとうせん)は、かつて福島県福島市及び伊達町保原町梁川町(いずれも現在の伊達市)などにおいて運行されていた福島交通軌道線路面電車)である。本項では、その支線の保原線・梁川線・掛田線などについても述べる。前身の福島電気鉄道(信達軌道)と飯坂電車との合併後の路線名は全線が「飯坂東線」であった。
概要

1908年明治41年)に雨宮敬次郎が設立した信達軌道により、軌間762 mm蒸気動力の軽便鉄道として福島 - 長岡 - 湯野村(後、湯野町)間が開業したことに始まる。同年内に長岡 - 保原を開業し、さらに雨宮傘下の事業者統合により、大日本軌道の福島支社となった。保原 - 梁川、保原 - 掛田 - 川俣を延長したが、1917年大正6年)に再び信達軌道として独立、つづいて桑折 - 保原を開業した。

1913年(大正2年)2月10日、機関車の火の粉により鎌田 - 長岡間の7箇所で小火が発生し、2月16日に沿線の消防組が鉄道会社に抗議している[1]。元々無煙炭コークスを使うことを条件として許可された軌道である[2]にもかかわらず、市街地で黒煙に対する苦情が出る[3]など、粗悪な石炭を使ったことが原因である。「軽便放火」と呼ばれた火災に対し、1916年(大正5年)には市街地区間の廃止運動も起こった。

そのような状況のなか、1922年(大正11年)5月19日午前11時6分、鎌田村大字本内で蒸気機関車からの火の粉が原因といわれる本内大火[1]が発生[注釈 1]。午後0時30分の鎮火までに住戸46戸、非住居87棟を焼失した。住民が軌道に座り込んで抗議、鉄道は18日間運休した[5]。この後、煙突に飛び火防止カバーが取り付けられた[6]

この火災により多額の損害賠償を請求され、また、以前から借入金もかかえていた会社は資金難に陥ってしまった。この時に取締役の吉田佐次郎[注釈 2]の要請をうけて取締役になったのが後に富山地方鉄道社長になった佐伯宗義である。佐伯は沿線火災予防に加えて、競合路線である福島飯坂電気軌道(後の飯坂電車、現在の福島交通飯坂線)による福島 - 飯坂の直通路線開業の対策から必然となっていた電化計画に着手した。まず社長が同郷の人である日本レール株式会社[7]を訪ね協力を依頼した。ここで電化資金の調達に成功すると、さらに債権者である日本興業銀行の総裁を説得し資金の借入に成功した。電化工事については金沢電気軌道社長に協力を依頼し同社の電気技術主任下田与吉(後に福島交通社長)を譲受け工事にあたらせた。この電化・改軌工事は費用節約のため、鉄道第2聯隊の演習として実施された。このとき掛田 - 川俣と桑折 - 保原間は赤字路線であり廃止されることになったが、これは日本興業銀行の助言によるものだという[注釈 3][8]1926年(大正15年)1月、社名を福島電気鉄道と改め、4月には先ず、福島駅前 - 長岡 - 湯野町間が完成している。同年12月までに対象全区間の電化・1,067 mm軌間への改軌の工事が完了し、路面電車となった。

ただし762 mm時代に比して道路の大幅拡幅ができなかったため、1,067 mm軌間の路線としては異例の車両限界の小ささとなり、車両の最大幅員は戦後まで1,676 mmと狭隘なままで、戦後に車幅を拡大して増備された一部車両でも2,000 mmに満たない狭幅員だった。

路線延長は31.5 kmと長く、軽便鉄道時代から各市街地や集落を連絡する機能を持っており、路面電車規格ではあったが福島市の市街電車であることと同時にインターアーバン(都市間連絡電気鉄道)的な性格を合わせ持っていた。旅客運輸とともに貨物運輸営業も行なっており、福島駅前と各主要駅を貨物列車が結んで沿線の貨物輸送を担っていた。1,067 mm軌間であるが狭隘な車両限界のために国有鉄道規格の貨車の直通はできなかった。

1927年昭和2年)10月に競合路線の飯坂電車を吸収合併して「飯坂西線」と改称[注釈 4]。従前の福島電気軌道の路線は「飯坂東線」と改称した。1942年(昭和17年)12月に飯坂西線は福島駅専用軌道で乗り入れを開始し、福島駅前通りから北に分岐していた従前の併用軌道は廃止されて飯坂東線と分離された[9]戦時中の企業統合で福島県中通り北部と浜通り北部の統合の中心となり、1943年(昭和18年)8月に周辺のバス会社を統合、福島電気鉄道グループの母体が完成した。

戦後は、設立時から関係があった福島県南交通を1961年(昭和36年)7月に合併して事業地域を拡大し、1962年(昭和37年)7月福島交通に社名変更。昭和30年代に経営に占める観光事業や路線バス事業の割合が大きくなり、軌道事業の存在感は徐々に薄くなった。モータリゼーションの進行により1967年(昭和42年)にまず聖光学院前 - 湯野町間を営業廃止して軌道を撤去し、長岡分岐点 - 伊達駅前間の旅客運輸営業を廃止して貨物運輸営業専用に変更した。1971年(昭和46年)に全線の営業を廃止し、同社の路線バスに転換された[10]
路線データ[11]

1963年(昭和38年)当時

路線距離:総延長31.5 km

福島駅前 - 長岡分岐点 - 聖光学院前 - 湯野町間13.5 km

長岡分岐点 - 保原間4.5 km(保原線)

保原 - 掛田間6.3 km(掛田線)

保原 - 梁川間6.6 km(梁川線)

伊達駅前 - 聖光学院前間0.6 km


軌間:1,067 mm(電化以前は762 mm)

複線区間:なし(全区間単線

最急曲線:半径16 m・聖光学院前のデルタ線[12]

最急勾配30.3 (増田 - 東湯野間[13]

電化区間:全線(直流750 V架空単線式[14]

変電所:聖光学院前(500 kW水銀整流器を設置[15]

車庫:聖光学院前(長岡車庫と呼称し、工場機能を併設)

軌条:22 kg/m、30 kg/m、福島駅前 - 文知褶通付近の3.5 kmと保原付近 - 三十日町付近の0.745 kmは37 kg/m[11] [16]

運行概要

1934年(昭和9年)8月25日改正当時

運行本数:福島 - 長岡間は5 - 22時に15分間隔(早朝深夜は30 - 60分間隔)、その他は6 - 20・21時に30 - 60分間隔。

所要時間:福島 - 長岡間34分、福島 - 保原間50分、福島 - 飯坂(後の湯野町)間50分、福島 - 梁川間1時間12分、伊達 - 梁川間40分、伊達 - 掛田間40分。
なお当時、飯坂西線(現、飯坂線)の福島 - 飯坂温泉間は5時38分から22時45分まで30分間隔、所要時間30分。

1969年(昭和44年)4月当時福島駅前 - 長岡分岐点間は1時間に4本、福島駅前 - 長岡分岐点間は日中15分おきで両区間共ラッシュ時間帯は増発された。保原 - 掛田間と保原 - 梁川間は日中は1時間間隔、ラッシュ時間帯30分間隔。福島駅前 - 保原間で12列車の折り返し運転が設定されていた。貨車を除く在籍車両23両中22両がフル稼動しており予備車両の余裕が無かった。長岡分岐点 - 湯野町間は1967年(昭和42年)9月16日に営業を廃止された。聖光学院前 - 伊達駅前間は区間運転で旅客運輸営業をしていたが同年同日で廃止、以降は貨物列車のみ一日6本運行した。長岡分岐点 - 長岡車庫 - 伊達駅前間は出入庫と貨物輸送のみ使用する様になっていた。その他の貨物輸送は長岡分岐点 - 掛田間と長岡分岐点 - 梁川間に各2往復客貨混合列車を運行していた[17]

開業から廃止まで運転手車掌が乗務するツーマン運転で、ワンマン運転は実施しなかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef