logo信貴山城
(奈良県)
信貴山城の石碑
別名信貴城、磯城
城郭構造山城
天守構造四層の天守櫓(1559年頃築)
築城主木沢長政
築城年天文5年(1536年)
主な改修者松永久秀
主な城主木沢長政、松永久秀
廃城年天正5年(1577年)
遺構曲輪、堀切、土塁、門跡、石積
指定文化財平群町指定文化財
再建造物なし
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度36分45.85秒 東経135度40分6.012秒 / 北緯34.6127361度 東経135.66833667度 / 34.6127361; 135.66833667
信貴山城(しぎさんじょう)は、奈良県生駒郡平群町信貴畑にあった日本の城[1]。木沢長政・松永久秀の居城となった[2]。
信貴山城は大和と河内の国境にある生駒山系に属する信貴山(標高433m)山上に築かれた山城である。信貴山は大和と河内を結ぶ要衝の地で、松永久秀はこの山上に南北880m、東西600mに及ぶ城郭を築いた[3]。信貴山中腹には、朝護孫子寺がある[3]。また、付近には、高安山城、南畑ミネンド城、立野城といった支城が存在した[3]。 信貴山城の城域は、古代山城の高安城の範囲に含まれるが、城域には高安城の遺構は現存していない[1]。また、南北朝時代に楠木正成によって築城されたという伝承も存在するが、しかし、同時代史料の裏付けはない[4]。 『経覚私要抄』には、長禄4年(1460年)10月、応仁の乱の過程で戦闘に敗れた畠山義就が「信貴山」に陣を退いたという記述がある[4]。城郭史研究者の中川貴皓によれば、これが信貴山城の史料上の初見である[4]。 さらに明応年間末期から永正年間初頭のいずれかの時点で、畠山尚慶が「信貴城」を使用したという『 足利季世記 その後本格的な城郭を築いたのが木沢長政である。中川貴皓によれば、『細川両家記』天文五年(1536年)三月二十六日条において「信貴城」の使用が確認できるため、この頃には一定の規模の城が築かれていた[6]。『証如上人日記』の天文5年6月26日によると、「木沢方へ、今度信貴山之上二城をこしらへ候て、はや移候間、従所々樽共行候条、遣候可然よし」 という記載が見受けられる[2]。信貴山城の完成を祝して本願寺より酒を贈ったと思われる[2]。 16世紀前半には、従来の城郭とは異なる多様な機能を有する、いわゆる「戦国期拠点城郭」が各地に登場している[7]。そして、大和国においては木沢長政の信貴山城が「戦国期拠点城郭」の嚆矢となった[7]。 しかし、長政が天文11年(1542年)3月太平寺の戦いで敗死すると信貴山城は二上山城と共に落城してしまう[1]。 信貴山城の戦い
沿革
黎明期
木沢長政の時代
松永久秀の時代松永久秀画像
戦争:攻城戦
年月日:永禄11年(1568年)6月29日
場所:信貴山城
結果:筒井順慶・三好三人衆連合軍の勝利
交戦勢力
筒井順慶軍