信玄堤
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信玄堤(2012年8月撮影)

信玄堤(しんげんづつみ)は、山梨県甲斐市竜王にある堤防である。しかしその堤防だけでなく、信玄堤や聖牛、将棋頭などの治水構造物を含めた総合的な治水システム自体を信玄堤として指している場合もある。

なお治水システムの構造物に雁行が含まれ、これを急流河川型霞堤として解説、紹介されることがあるが、信玄堤自体は霞堤ではない。戦国時代に甲斐の守護、戦国大名である武田信玄(晴信)により築かれたとされる。

史料上では「竜王川除場」と記されており、「信玄堤」の呼称は江戸時代後期から見られ、近代以降に一般化した。また「信玄堤」と呼ばれる堤防は武田氏以降のものを含め県内各地にも存在する(『甲斐国志』に拠る)。竜王堤。
釜無・御勅使川と信玄堤の築造[ソースを編集]
竜王信玄堤の地理的・歴史的景観[ソースを編集]信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。写真上方より下方に流れる釜無川左岸(画像右側)に帯状に見える緑地が堤防部分である。また、竜王河原宿(画像右上)の短冊型地割も航空写真から分かる。(1975年撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成信玄堤から釜無川上流方向を望む。復元された聖牛

甲斐国は内陸部の山間地域であるが、国中地方では平野部である甲府盆地を有する。盆地底部は笛吹川釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、安定した定住は困難であった。信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立する。

平安時代の延長5年(927年)に成立した『延喜式』では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している[1]。水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した『甲陽軍鑑』ではかつて甲府盆地がであったとする甲斐国湖水伝承を記している[1]

釜無川は支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
竜王信玄堤の築造と武田氏[ソースを編集]

甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府甲府市)に居館を移し武田城下町の整備を行う。天文11年(1542年)6月に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされている。一方で、川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間(1555年 - 1558年)であることから、弘治年間までには着工されていたとする説もある[2]

『国志』に拠れば、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられたという。信玄堤に関する最古の文書は永禄3年(1560年)8月2日付の武田信玄印判状(『保坂家文書』)とされる[3]。同文書では「竜王の川除」に居住した際に家ごとの棟別役が免除されることを記しており、「竜王の川除」は信玄堤・竜王河原宿を指しており、同文書が発給された永禄3年以前には堤防の築造が行われていたと考えられている[3]。同文書には宛名がなく、武田氏は広く竜王河原宿への移住を呼びかけていたと見られている[3]。於龍王之川除作家令居住者棟別役一切可免許者也仍如件永禄三庚申八月二日 ? 武田家朱印状(「保坂家文書」)

また、竜王河原宿に所在する史料として輿石家屋敷前の側溝に架けられていた旧竜王河原宿石橋の銘文がある[3]。この石橋の部材は永禄4年(1561年)の年記を有し、永禄4年に「市之丞」が架けたもので、跡部市朗右衛門が側溝を設けた際に出入口に利用されたという[3]慶長8年(1603年)の竜王村検地帳には「市之丞」の存在が記され、輿石家の先祖にあたる人物であると考えられている[3]。永禄四歳市之丞掛替石跡市朗石エ門黒入巾八尺長九間出這入口石橋掛替之 ? 旧龍王河原宿石橋

堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている。

天正年間には、年未詳6月29日付武田氏朱印状(「保坂家文書」)によれば、決壊した信玄堤に対応する普請として釜無川下流域を指す「水下」の郷村に居住する御家人・御印判衆が中心となり人夫を動員すること指示されている[4]。なお、内容の解釈に対しては宛名が「水下之郷」となっていることから、武田家が御家人・御印判衆を通して堤防工事を実施したのではなく、水害による被害を受ける釜無川流域の郷村が、村内に居住する御家人・御印判衆を堤防工事に動員することを願い出て許可され、村が中心となり治水工事が行われたとする説もある[5]

この朱印状は今福昌常(和泉守)が奉者を務めた奉書式朱印状で、寸法は縦32.6センチメートル・横45.3センチメートル。武田勝頼の用いた獅子朱印が捺印されている[6]。年代は天正元年(1573年)説・天正4年(1576年)説があるが、平山優は獅子朱印は勝頼が天正5年(1577年)以降に使用したU型であることや、今福昌常が「和泉守」の官途名を使用するのは武田家中において家臣が一斉に官途名・受領名を変更した天正8年(1580年)1月以降であること、さらに今福昌常が奉者を務めた奉書式朱印状は天正9年(1581年)に限定されることから、この朱印状の年代を天正9年6月と推定している[6]

また、平山はこの朱印状で記される信玄堤の決壊に関して、『兼見卿記』同年5月20日条には京都における大雨・洪水が記録されていることや、『家忠日記』にも同様の水害が記録されていることから、天正9年には広範囲で大規模な大雨・洪水に見舞われていた状況を指摘している[6]
近世初頭の信玄堤[ソースを編集]

天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻により武田氏は滅亡し、同年6月の本能寺の変により発生した「天正壬午の乱」を経て、甲斐は徳川家康が領する。徳川家康は豊臣政権に服従すると関東へ移封され、甲斐には豊臣秀勝加藤光泰を経て文禄2年(1593年)には浅野長政幸長が入った。

浅野氏時代の竜王信玄堤に関する文書として、文禄5年(1596年)の「浅野吉明書状」[7]がある[5]。同文書によれば、浅野氏家臣である浅野吉明は甲府・府中八幡神社に対し、国中地域の神職に対して府中八幡神社の普請に参加しないものは、「竜王之堤」(竜王信玄堤)の普請に従事することを命じている[5]。府中八幡神社は甲斐・国中地方の惣社であり、竜王信玄堤の普請は惣社の普請に匹敵する重要性を有していたと考えられている[5]

近世にも竜王堤の普請は続けられており、江戸時代にかけて中巨摩郡昭和町中央市方面へ部分的に延長された。1994年(平成6年)に行われた昭和町河西の発掘調査に拠れば、堤防は河原の砂礫層に杭列が施されたもので、内側へ突出した「石積出し」の痕跡も見られる。新旧の差が見られ、修復が繰り返されていたと考えられている。
竜王河原宿[ソースを編集]現在の竜王河原宿

竜王河原宿は堤防の日常的な管理補修や水害発生時における堤防防備の労働力確保のため設置された宿で、赤坂台地の南縁に位置する釜無川旧河川敷の一角に位置する。現在の甲斐市竜王字東裏・西裏地区にあたり、短冊型地割が見られる。初見史料は1560年永禄3年)武田家印判状であるが、この段階で棟別役一切免除の特権を条件に移住者の募集が募られており、移住者が郷村別に列挙され「竜王村」の地名が記されている1565年(永禄8年)4月晦日文書の段階までに整備が行われていたと考えられている。

永禄8年文書に拠れば、移住者は主に現在の甲斐市域や南アルプス市域など近辺から集まっているが、特に宿に近い八幡之郷や西山郷(甲斐市域)が多く、屋敷請人として名前が記されている有力土豪の一族や配下が移住者となっていたと考えられている。


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