安曇野市穂高北穂高にある大糸線の「安曇追分駅」とは異なります。
信濃追分駅
駅舎(2021年10月)
しなのおいわけ
SHINANO-OIWAKE
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長野県北佐久郡軽井沢町大字追分1092[1].mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度20分10.21秒 東経138度33分34.95秒 / 北緯36.3361694度 東経138.5597083度 / 36.3361694; 138.5597083
信濃追分駅(しなのおいわけえき)は、長野県北佐久郡軽井沢町大字追分にある、しなの鉄道しなの鉄道線の駅である[1]。 信越本線時代は中央本線富士見駅と並んで、特急が通る日本最高所駅(957 m[2])として知られていたが、しなの鉄道に移管されると共に特急設定は消滅した。現在でもしなの鉄道最高所駅であり、JRを除いた普通鉄道では最も標高の高い駅である(JRで最も標高の高い駅は小海線野辺山駅[2])。 JR時代は高崎支社と長野支社の境界駅(実際の境界は隣の御代田駅との間)だった。 「追分」は中山道と北国街道の分岐点の意味であり、旧国名の「信濃」を冠したのは駅昇格時、現在の室蘭本線と奥羽本線に追分駅(追分駅 (北海道)・追分駅 (秋田県)をそれぞれ参照)が既に存在していたからである。 一時期、不動産分譲のために「西軽井沢」へ駅名と地名を変更する計画もあったと言うが、地元住民やこの地に別荘を持っていた詩人等の反対で実現しなかったとされる[要出典]。 追分は、中山道宿場町として栄えた町であったが、鉄道開通により寂れていた。帝国鉄道庁初代総裁であった平井晴二郎や鉄道院副総裁を務めた野村龍太郎等が現地を視察した際にこの実情を知り、大学生の夏場の合宿地として宿場の建物を利用することを発案して、まずは夏場に限った仮乗降場として開設された。鉄道院副総裁を務めた長谷川謹介の指示により、1923年(大正12年)になり本設の駅に昇格した[3]。 相対式ホーム2面2線を有する地上駅[1]。駅舎に北口、下りホーム軽井沢方に南口が設置されている。南口はしなの鉄道移管時の無人駅化に伴い設置された。上り線軽井沢方に横取あり。JR時代は駅員配置駅であったが、現在は無人駅。但し、2013年7月13日より自動券売機が設置されている[10]。なお、以前はゴールデンウィークと夏休み期間中は乗車券臨時発売があり、小諸駅から駅員が派遣されていたが、自動券売機設置に伴い2015年以降行われなくなった。 両ホームには、乗車駅証明書発行機が設置されている。木造駅舎を備える。
概要
歴史
年表
1909年(明治42年)6月25日:鉄道院の追分仮停車場として開設[1]。
1923年(大正12年)10月1日:鉄道省信越本線の信濃追分駅となる[1]。
1969年(昭和44年)10月1日:営業範囲を「一般運輸営業」から「旅客、手荷物、小荷物及び小口扱貨物」へ変更する[4]。
1972年(昭和47年)3月15日:営業範囲を「旅客、発送手荷物及び発送小荷物(9月11日 - 翌年7月19日までの期間は旅客に限る。)」へ変更する[5]。
1974年(昭和49年)10月1日:営業範囲を「旅客、発送荷物(9月11日 - 翌年7月19日までの期間は、旅客に限る。)」へ変更する[6]。
1984年(昭和59年)2月1日:営業範囲を「旅客」へ変更する[7]。
1985年(昭和60年)3月14日:無人駅化[8]。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる[9]。
1997年(平成9年)10月1日:北陸新幹線開業に伴い、東日本旅客鉄道からしなの鉄道に移管される[9]。
2005年(平成17年)秋:駅舎内に暮しの手帖別冊「あたらさん」の編集室が設置される。
2013年(平成25年)7月13日:自動券売機が供用開始[10]。
2020年(令和2年)10月25日:「あたらさん」編集室を閉鎖[11]。
駅構造
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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