この項目では、令制国の信濃国について説明しています。
長野県歌については「信濃の国」をご覧ください。
のちにこの信濃国となる、科野国造が支配した地域については「科野国造#支配領域」をご覧ください。
信濃国
■-信濃国
■-東山道
別称信州(しんしゅう)
所属東山道
相当領域長野県、岐阜県中津川市の一部[注釈 1]
諸元
国力上国
距離中国
郡・郷数10郡67郷
国内主要施設
信濃国府1.(推定)長野県上田市
2.(推定)長野県松本市
信濃国分寺長野県上田市(信濃国分寺跡)
信濃国分尼寺長野県上田市(信濃国分尼寺跡)
一宮諏訪大社(長野県諏訪地域)
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信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。
『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる [注釈 2])」。 古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。 「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから唱えられている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある[1]。 小林敏男は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした[2]。 7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである[3]。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた[4]。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年?740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について、「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある[5]。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179年)に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。 神代の国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。 一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。 また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達[注釈 3]が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。 史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。信濃国の国造についての実像は不明であるが、広大な信濃を1氏族のみが支配していたとは考え難く、出雲国の出雲国造のように国内で突出した存在がいたのではなく、讃岐国のように複数の氏族が国造として任命されており、欽明天皇の宮に舎人として集ったことに由来する金刺氏や、敏達天皇の宮に舎人として集ったことに由来する他田氏のような、疑似的同族関係を結んでいたと考えられる[6]。 考古遺物としては、これまでの長野県の弥生時代像を大幅に変える大集落・松原遺跡の中心部分が、1990年の上信越自動車道建設に伴う長野インターチェンジ予定地付近の発掘調査で発見された。これは縄文時代から中世に至る各時代の包含層が千曲川の洪水堆積層を挟んでいることが判明しており最盛期の紀元前1世紀ごろには大きな溝で居住域をいくつかに分かち、その一つ一つに数多くの建物跡を持ち近畿地方の標準的な環濠を持つ集落が4つ程入る規模がある。同時に日本海側から千曲川を遡り関東平野に抜ける交流ルートの要であったことを出土した大量の土器や石器が示している。また3世紀の遺跡として、木島平村で根塚遺跡
「信濃」の名称と由来
神代に見える科野国
歴史
古代
4世紀前期から6世紀初頭にかけて、北信で埴科古墳群や川柳将軍塚古墳など、ヤマト王権の影響を受けた前方後円墳が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に代田山狐塚古墳が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、5世紀後半から6世紀末頃にかけて飯田古墳群が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には現在の箕輪町に松島王墓古墳
が築造され、筑摩郡周辺にも弘法山古墳が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳が円墳を中心に再び築造される。しかし諏訪地域への古墳文化の流入は遥かに遅く、5世紀代にフネ古墳、片山古墳が築造されるものの、前方後円墳は下諏訪青塚古墳が唯一築造されるにとどまった。4世紀から5世紀後半にかけての北部シナノの千曲川中流域における前方後円墳の集中と、5世紀後半から6世紀にかけての南部シナノの天竜川流域における前方後円墳の集中という交代現象は、シナノ特有の在地首長の移住というものではなく、全国的な動きであった[2]。
古墳時代には、倭系百済官僚として科野の氏(ウジ)を持つ人物が史書に見える。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる[8]。