信夫淳平
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい)1949年頃
人物情報
生誕 (1871-10-14) 1871年10月14日
日本鳥取県
死没1962年11月1日(1962-11-01)(91歳)
出身校東京高等商業学校(現一橋大学
子供信夫韓一郎
信夫清三郎
学問
研究分野法学(国際法)
研究機関早稲田大学
テンプレートを表示

信夫 淳平(しのぶ じゅんぺい、明治4年9月1日1871年10月14日) - 昭和37年(1962年11月1日)は、日本外交官法学者。専門は国際法。学位は、法学博士東京帝国大学論文博士・1925年)。早稲田大学教授、学士院会員中華民国顧問等を歴任。1943年学士院恩賜賞受賞、従三位勲一等瑞宝章[1]
経歴
生い立ち

1871年、鳥取県生まれ[2]。父・恕軒には男の子が3人あり、それぞれ寛一郎、淳平、敬造といった[3]。5歳か6歳のときに生母・いとが恕軒と離別した[3]。そのためどういう母親だったかの記憶はない[3]
学生時代

旧制鳥取県中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、開成中学校を経て、1894年東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業[4][5][6]

淳平は自分の経歴を書いたメモを遺している[7]。メモではこうなっている[7]。「幼時小学校を卒へたるのみで、中学校を知らず、大学にも入らず、私塾にて漢学を専攻し、次で共立中学及同人社にて英語を学び、後に英吉利法律学校東京専門学校高等商業学校にて法律学、経済学、商業学等を聴講したる外、主に独学にて修業…」[7]
商業学校教諭

北海道庁属を経て、1894年市立新潟商業学校(新潟県立新潟商業高等学校の前身)校長、1896年市立久留米簡易商業学校(久留米市立久留米商業高等学校の前身)校長[1][8]
外交官として

1897年外交官及領事官試験に合格[9]。領事官補として京城に赴任する[10]。その後二十年間は海外の外交官暮しが続き、メキシコ公使館書記官[10]、満州占領地行政事務官、統監府下の仁川理事庁理事官[10]オーストリー大使館書記官[10]オランダ公使館書記官[10]カルカッタ総領事を歴任[10]

日露戦争時に大日本帝国陸軍遼東守備軍司令部付・満州占領地行政事務官を務め[10]、法律顧問の有賀長雄との知遇を得る[11]
国際法学者として

1917年46歳で外交官を退き早稲田大学講師になった[12]。早稲田大では外交史、国際法、国際政治学を教え[12]新愛知(現中日新聞東京新聞)主筆も務めた[6]

1925年東京帝国大学から法学博士の学位を取得[12]、1932年2月に帝国海軍第三艦隊司令部国際法顧問として旗艦出雲に乗り組み第一次上海事変に従軍[13]1943年には四巻五千ページの大著『戦時国際法講義』で学士院恩賜賞をうけた[12]。1944年帝国学士院会員[1]

戦争中に定年で早稲田大講師を辞めたが、戦後早稲田大学に新制大学院ができたとき教授に迎えられ、1951年から1956年まで早稲田大教授を務めた。80歳をこえる高齢でふたたび外交史と国際政治学の講座をうけもった[12]
晩年

1962年91歳で死去した[14]
人物像

淳平は、大正末から昭和初年にかけて新愛知新聞主筆万朝報の社長をつとめ、論説を書いている[12]

宗教禅宗[9]趣味乗馬、銃猟[9]
栄典

1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章[15]

1912年(大正元年)12月18日 - 勲四等瑞宝章[16]

家族・親族
信夫家父・信夫恕軒

父・恕軒[3](漢学者)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:49 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef