三代目?道会侠道会の代紋
設立1969年
設立者森田幸吉
設立場所 広島県尾道市
本部〒722-0052
広島県尾道市山波町3025-1[1]
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度25分33.2秒 東経133度13分45.1秒 / 北緯34.425889度 東経133.229194度 / 34.425889; 133.229194
?道会(きょうどうかい)は、広島県尾道市に本部を置く指定暴力団。2023年末時点の勢力は約60人である[1]。
前身は『高橋組』。 昭和20年(1945年)10月、高橋徳次郎
略歴
高橋組
昭和26年(1951年)4月23日、高橋徳次郎は、尾道市市議会議員に立候補し、第3位で当選した。その後、高橋徳次郎はヤクザから引退し、賭場を森田幸吉に任せた。
昭和30年(1955年)12月、高橋徳次郎は、広島県県議会議員に当選した。
昭和42年(1967年)、波谷守之は、共政会樋上組・樋上実組長から、美能組(組長は美能幸三)・小原組との和解を依頼された。樋上実の提案は「美能幸三が山村辰雄への報復を止めるのならば、美能幸三を組長として、美能組・樋上組・小原組を統一する」というものだった。樋上実は、森田幸吉と合田一家・浜部一郎総長に自分の提案を示し、合意を得た。波谷守之は、美能組幹部・薮内威佐夫とともに、札幌刑務所に行き、美能幸三を説得した。1回目、2回目の説得では、美能幸三が納得しなかった。波谷守之は、3回目の説得で、美能幸三を説得した。山田久が、共政会関係者を説得し、樋上実の提案に合意させた。12月、広島県警尾道警察署は、野球賭博容疑で、高橋徳次郎や高橋組主要幹部を逮捕した。
広島抗争と同時期に、高知にある山口組系豪友会との間でも抗争が起こった。この時は森田が三代目山口組組長・田岡一雄を訪問し、その後に豪友会会長・中山勝正ら山口組首脳と会食して平和共存の話し合いをした。 昭和44年(1969年)1月、森田幸吉が、元高橋組組員を中心に尾道市周辺の暴力団組員を糾合して、「?道会」を結成した。 昭和44年(1969年)11月、共政会十一会
初代?道会
昭和45年(1970年)、下関市の合田一家・合田幸一総長の提唱により反山口組同盟・関西二十日会が結成された。加盟組織は、合田一家、大阪市の松田組、神戸市の忠成会、姫路市の木下会、岡山市の浅野組、広島市の共政会、北九州市の工藤会など[2]。
同年4月、森田幸吉は、高知県高知市に「?道会高知支部」を設立した。
同年5月、森田幸吉は、愛媛県今治市に「?道会今治支部」を設立した。
昭和46年(1971年)8月、浅野組との抗争の中で理事長が射殺される。同年10月に理事長の組葬が予定されたが寺院側から断られたほか、警察からは「義理かけ」であるとして中止の警告が行われた[3]。
同年9月20日、副幹事長が尾道市の路上で浅野組組員を襲撃。組員の乗用車に車で体当たりで足止めをした後に拳銃を乱射したもので、2人が重軽傷[4]。
昭和47年(1972年)1月、?道会高知支部と山口組豪友会の間で、覚せい剤密売利権のトラブルを切っ掛けに抗争が勃発した[5]。
同年5月、兵庫県有馬温泉で、山田久と森田幸吉の手打ちが行われた。仲人は、大日本平和会・平田勝市会長がなった。手打ち式の後、波谷守之と山田久と森田幸吉は、兄弟分になることを約束した。
昭和54年2月 会長代行の元中敏之が射殺される事件が起きた。(1979年)4月16日、三代目山口組・田岡一雄組長は、田岡一雄の自宅で、山田久、森田幸吉、浅野組・浅野眞一組長、共政会・門広相談役と会った。この席で、山口組と、それぞれ関西二十日会に所属していた共政会、侠道会、浅野組との共存共栄路線が確認された。
昭和56年(1981年)9月、森田幸吉は、香川県高松市で「新侠会」を結成させた。
昭和62年(1987年)、森田幸吉は、熊本県熊本市の熊本同志会を傘下に収めた。