保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国(滋賀県)に淳仁天皇が営んだ宮で、平城京の北の都「北京」(ほくきょう)とされた。保良京、保良離宮とも呼ばれた。また、天智天皇の大津宮に近かったことから、大津宮と記した古文書(天平宝字6年(762年)3月1日付「造東大寺司告朔解」(『大日本古文書』第5巻125))もある。 聖武太上天皇の晩年、藤原仲麻呂が光明皇后の支持を得て台頭。聖武太上天皇の死後、天平勝宝9歳(757年)、橘奈良麻呂の乱を平定し政権を掌握した仲麻呂は、大炊王を擁立。天平宝字2年(758年)、孝謙天皇からの譲位を受ける形で即位させる(淳仁天皇)。 孝謙上皇と淳仁天皇の時代の天平宝字3年(759年)11月16日、藤原氏と縁が深く(仲麻呂の祖父不比等は淡海公、父武智麻呂は近江守)仲麻呂も近江国守であったことから、近江国に保良宮の造営が開始された。保良宮の近くにあった勢多津 天平宝字5年(761年) 天平宝字6年 天平宝字8年
背景
行幸と廃都
1月21日、保良京で諸司の役人に宅地を班給する。
10月11日、保良遷都のためとして、藤原仲麻呂らに稲束を支給。
10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。
10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは唐の陪都「北京太原府」を意識したものとみられる。
1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀をとりやめる。
3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設ける。
3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。
5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。
このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都。
遺跡
琵琶湖から流れ出す瀬田川右岸に位置し、滋賀県大津市の石山国分遺跡