保育園
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この項目では、日本の児童福祉施設について説明しています。イギリスやアメリカなどの就学前児童の教育施設については「保育学校」をご覧ください。
1960年代の東京の保育所

保育所(ほいくしょ[1]、ほいくじょ[注 1]、Nursery center[2])は、保護者が働いているなどの何らかの理由によって保育を必要とする乳幼児を預かり、保育することを目的とする通所の施設。日本では、児童福祉法第7条に規定される「児童福祉施設」となっている。本項では、日本の保育所について解説する。

施設名を「○○保育園」とする場合も多いが、あくまでも「保育園」は通称であり、同法上の名称は「保育所」である[3]

なお、市区町村の条例で施設名を○○保育園と定める例がある。
概要

保育所における保育では、養護教育が一体となって展開される。ここでいう「養護」とは、子どもの生命の保持及び情緒の安定を図るために保育士等が行う援助や関わりであり、「教育」とは、子どもが健やかに成長し、その活動がより豊かに展開されるための発達の援助である。ただし、「教育」に関しては、「義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとしての満3歳以上の幼児に対する教育」は除かれている[4]

児童福祉法には、こども家庭庁が管轄する「児童福祉施設」として、保育所(認可保育所)を次の通り規定している。

保育所は、保育を必要とする乳児・幼児を日々保護者の下から通わせて保育を行うことを目的とする施設である。(第39条第1項)

「乳児・幼児」とは、0歳から小学校入学前までの乳幼児。(第4条第1項)


第6条の3第7項の「保育」の定義中の「教育」の規定により、「義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとしての満3歳以上の幼児に対する教育」は行わない。(幼稚園等で行われる)

例外的にそれ以上の年齢児童を保育することもある。(第39条第2項)

社会福祉法では、第二種社会福祉事業として規定されており(第2条第3項)、地方自治体や社会福祉法人による経営が多い。

歴史
保育施設の誕生

社会的変動の進行により農村から都市へと農民が流入する一方、旧士族や旧職人層の分化が生 まれ、少しずつ形成されつつあったスラムと呼ばれる都市下層社会の一般的生活者、つまり、苦しい生活を余儀なくされた都市における新しい貧民層がつくられた。この対策として、1882 年に 貧困児童の為の学校とは異なる「遊戯場」、また、労働の為に子どもの養育が十分に行き届いてい ない母親の為の「簡易」な幼稚園として保育所の設立を文部省が奨励し、1887 年保育施設が誕生した。そして、1895 年には民間の力によって神戸に無料の善隣幼稚園が誕生し、その後、数々の貧困児童の為の保育施設が設立されていった。この中でも「貧困幼稚園」の典型として、1900 年 に二葉幼稚園(1916 年に二葉保育園と改称する。)が開設された。当時の保育時間は 1 日 7?8 時 間とし、保育内容を「遊嬉、唱歌、談話、手技」としていたが、主に遊戯・衛生・生活習慣などの生活指導に重点をおいた保育が行われていた。現在との違いとして、当時の園児は毎日一銭を持参し、うち五厘は本人の貯金の為、残り五厘は保育料としておやつ代に充てていた。また、1909 年に内務省はこれらの施設に助成金を交付し、これらを慈恵救済事業として組織化(この組織によって最初に創られたのは大阪市の鶴町託児所)し、米騒動以後に公立託児所の設置を行うなど 文部省の幼稚園とは異なる別系統の施設として位置づけられた。
戦後の保育

1946 年の生活保護法を皮切りに教育基本法学校教育法児童福祉法等の制定実施や厚生省に児童局を労働省に婦人少年局がそれぞれ創設され、多くの法律の制定や局の創設が行われる一方、戦争によって創り出された母子家庭の生活苦は高まり、足手まといとなる幼児の子守の為学童は長欠不就学を余儀なくされ、保育所や母子寮は超満員となった。これらを嘆いた母は署名運動を起こし、保育所設置を叫び、こうした社会情勢の激変は多くの民間保育団体を結成していく引き金となった。幼稚園と保育所は幼保一元化を思考しながら二次的に制度化していった一方、保育をする上では困難を極めていた。文部省では戦後の施設の質的低下を取り戻す為、新しい教育の内容や方法に相応しい施設づくりに向けたモデル幼稚園を指定した。

一方、厚生省は依然として保育所を「保育に欠ける」ことが入所の絶対条件とし、救貧的な施設として捉えていた。保育所の保育は母親が家庭において日常的に子どもの世話をする保護養育の保育とし、幼稚園で行われている様な教育をする保育ではないという保育観を持続していた為、保育内容に積極的に介入しなかった。この状況を背景として、1953 年に日本の保育に科学的な観点を導入しようと幼稚園・保育所の保育者を主力として「保育問題研究会」が発足された。これにより保育問題は多くの国民の問題となり、保育所づくり運動も単なる増設ではなく保育時間の延長や保育内容・条件の改善要求などを含めた運動へと発展していった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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