保皇派(ほこうは)とは、一般に、皇帝および皇帝制度を支持する派閥。さまざまな地域・時代において用いることができる言葉であるが、以下、中国・清末から中華民国期における保皇派について記載する。
保皇派とは、清朝(皇帝制度)を維持したまま、憲法制定等の改革によって、中国の近代化、立て直しを図るべきであると考える立場の人々のこと。「革命派」と対になる言葉である。「保皇党」、「保皇会」と呼ばれることがあるが、これは、そのような名称の団体が存在したことを意味するわけではなく、「保皇派」と同じ意味である。さらに、「立憲派」、「改良派」、「変法派」などと呼ばれることもある。特に、「立憲派」は、一般には、開明的・進歩的な意味合いが強い言葉であるが、ここでは、上記のとおり、「革命派」と対立する意味であり、むしろ保守的な意味合いを持つ。
1898年、戊戌の変法の失敗(戊戌の政変)により、康有為、梁啓超らは、日本に亡命した。この亡命中の1899年に保皇会こと「保救大清皇帝会」が設立されたことから保皇派の名前が定着する。また、「立憲派」、「改良派」、「変法派」との範囲の違いや時期的な使い分けも存在するようであるが(これらの言葉は、上記亡命前から使われており、例えば、亡命後は、これらの言葉が使われないとする考え方もあるが)、厳密なものでも、明確なものでもない。なお、光緒帝死後は、皇帝を擁立する考え方は鳴りを潜め、保皇派とは呼ばれず、多くの場合、立憲派と呼ばれる。
保皇派に属する者としては上記の康有為と梁啓超以外に羅伯堂、唐瓊昌らが存在し、中華民国大総統の袁世凱を中華帝国皇帝に即位させた楊度は保皇派のイデオローグであった。
(中国語版)と呼ばれる北京の中央政府に忠実な親中的な勢力は民主派から保皇党(中:保皇黨)とも呼ばれている[1]。[ヘルプ]
^ “學者:董無法處理香港政治變化保皇黨大敗特首上京解畫”
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更新日時:2018年3月30日(金)08:07
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