保戸野通町
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保戸野通町
秋田市通町。画像右側が保戸野通町にあたる。
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度43分17.57秒 東経140度6分57.45秒 / 北緯39.7215472度 東経140.1159583度 / 39.7215472; 140.1159583
日本
都道府県 秋田県
市町村 秋田市
人口(2016年(平成28年)10月1日現在)[1]
 ? 合計301人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号010-0912
市外局番018[2]
ナンバープレート秋田

保戸野通町(ほどのとおりまち)は秋田県秋田市にある郵便番号は010-0912。住居表示実施済み地区。

本項では、保戸野通町の前身であり1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて廃止された保戸野本町(ほどのほんちょう)・保戸野新町(ほどのしんまち)・上通町(かみとおりまち)・中通町(なかとおりまち)・大工町(だいくまち)・新大工町(しんだいくまち)についても記述する。
地理

秋田市の中央部、保戸野地域の中では南部に位置する。東西に細長い町域だが、町の性格は南北で分かれ、南部は商業地、北部は住宅地である。中央を縦断する秋田県道233号土崎港秋田線(通称「菊谷小路」)を境として北部は鉤形になっている。

南は県道233号及び秋田市道(通称「通町」)を挟んで大町一丁目、西は秋田市道(通称「保戸野みその通り」)を挟んで保戸野鉄砲町、北は秋田市道(通称無し)を挟んで保戸野すわ町保戸野中町、東は旭川を挟んで千秋矢留町に隣接する。
河川

旭川

歴史

久保田城下のうち、内町(侍町)の一角である保戸野本町と保戸野新町、及び外町(町人町)の一角である上通町・中通町・大工町・新大工町を前身とする。

保戸野本町は高禄の家臣が置かれた保戸野侍町の中央通りで、藩政期には上丁・下丁に分かれていた[3]十二所所預を勤め3人の家老を輩出した塩谷氏の屋敷があった[3]。保戸野通町の北東部が保戸野本町の南半分に相当する。

保戸野新町は小禄・扶持方を混在する町で、文政期の絵図では東部に厩があり厩町とも呼ばれた[4]。保戸野牛小路、保戸野茜小路との名もあった[5]。保戸野通町の北西部が保戸野新町の南半分に相当する。

上通町・中通町は、『梅津政景日記元和4年6月29日(1618年8月19日)の条が初見である[6]。通町橋の旧名である「さかな町橋」の名は同日記の慶長17年(1612年)に記録されており、町割は城下建設の初期から行われていた[6]。初期には「下通町」の記録もあり、何らかの理由で中通町に統合されたものと考えられているが、一般に「通町三町」と総称されていた[6]寛永6年(1629年)に大町三町とともに二階造りが命じられ、同8年に羽州街道の茶町筋から大町筋への変更に伴い上通町・中通町とも街道筋となった[6]。家督専売権は認められなかったものの、寛延2年(1749年)、百姓が収納物の米・銭の不足を通町の商人に立て替えてもらい、翌年に青物・薪・柴萱その他の大町・茶町物以外の雑貨を売って借りを返す、市場権が認められた[7][8]文久4年(1864年)になって朝市の専業家督権を得た[7][8]。通町橋のたもとに刑場と、処刑された罪人のさらし場があった[6][7]。藩の御用油商人であり明治2年に八橋油田を開発した千蒲善五郎は、代々上通町で営業していた[9]

大工町は名の通り大工が居住した町で、中通町に連続する街道筋の町である[10]。『梅津政景日記』元和3年4月9日(1617年5月13日)の条に「番匠町」の名で記録されている(番匠=大工)[6]。初期には上大工町、下大工町の2町に分かれていた[11]。寛延2年(1749年)に通町とともに定市の市場権を得たが、市が発展した記録はない[6]

新大工町は明治に入ってから町割されたもので、大工町と保戸野表鉄砲町の間にあった「六道ノ辻」(りくどうのつじ)、または「大道ノ辻」(だいどうのつじ)と呼ばれる土手と堀を巡らせた関門を整地して造られた[6][12]。保戸野通町の南西端で道路が鉤形になっている箇所が六道ノ辻の跡地である。
沿革

1873年(明治6年)3月 - 大区小区制の改正に伴い、旧久保田城下の保戸野を冠した町は秋田県第1大区1小区に、上通町・中通町・大工町・新大工町は2小区に属す[13]

1874年(明治7年) - 六道ノ辻跡に人家が集中したことにより、新大工町と命名される[14]

1876年(明治9年) - 上通町の進藤京兵衛が切手売下人に指定され、県内初の郵便差入柱函を設置[7]

1877年(明治10年) - 新大工町に巡査交番所が設置される[12]

1886年(明治19年)4月30日 - 俵屋大火。保戸野本町で全焼41戸、半焼2戸[5]。上通町・中通町・大工町で全戸全焼[7][8][11]

1889年(明治22年)7月14日 - 秋田馬車鉄道(秋田市電の前身)が営業開始。秋田停留所(後の新大工町停留所)が設置される。

1890年(明治23年) - 進藤京兵衛邸が貯金預所となる[7]

1905年(明治38年) - 貯金預所が秋田通町郵便局に改称する[7](現在地の向かい)。


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