保守新党
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保守政党」とは異なります。

日本政党保守新党
New Conservative Party
成立年月日2000年4月3日
前身政党自由党(一部)[1]
民主党(一部)
解散年月日2003年11月21日
解散理由自由民主党への合流
後継政党自由民主党[1]
本部所在地〒102-0093東京都千代田区平河町二丁目7番5号 砂防会館
政治的思想・立場保守主義[1]
※ 同日成立の保守党が新党結成のため一旦解党後2002年12月25日に保守新党を設立した
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保守新党(ほしゅしんとう、英称:New Conservative Party, NCP)は、かつて存在した日本の政党

本項目では、本政党結成の歴史的経緯から、事実上の前身である保守党(ほしゅとう、英文名称は同じ)についても説明する。
保守党

自自公連立政権(自由民主党・自由党・公明党による連立政権)からの離脱に傾く自由党党首小沢一郎及び同側近グループに対し、連立継続を望む海部俊樹最高顧問、野田毅前幹事長、二階俊博運輸大臣中西啓介選対委員長らを中心としたグループは新党結成を画策。2000年4月2日、小渕恵三首相が緊急入院。翌4月3日、連立政権残留グループはホテルニューオータニで新たな政党「保守党」の設立総会を開いた[2]。この時、自民党の野中広務らが自由党の中間派議員に選挙協力などで説得した結果、参加者は自由党所属国会議員(50名)の過半数に達する26名となった。保守党は過半数の参加を基に自由党へ分党要求をしたものの一貫して拒否されたため、やむなく離党による新党結成という手続きをとり、政党交付金は同年6月の総選挙後まで交付されなかった。当時マスコミや野党からは保身党、自己保身政権と酷評された。

初代党首は当初、野田が有力視されていたが幹事長を希望、海部も固辞。選挙の顔として元女優で当時参議院議員扇千景が就任した。しかし総選挙ではわずか7議席に留まり、一方小沢率いる自由党は4議席増の22議席を獲得した。

翌年7月の参議院選挙では、改選数2に対して当選者が比例代表の扇党首一人に留まったために責任論が噴出、同年9月に退陣する事になった。

なお、同選挙では保守とホスピタル(病院)を掛けた「保守ピタル」というCMが放映された(2001年6月9日、国会内で撮影。女医に扮した扇が出演した。このCMでは扇がかつて出演していた富士フイルムシングル8」のCMで使われた「私にも写せます」をもじった「私にも治せます」というフレーズがあった)[3]
党史

2000年

4月3日 - 自由党から分裂して保守党結成、初代党首に扇千景が就任。

6月25日 - 第42回衆議院議員総選挙で7議席と惨敗(7名全員が小選挙区で自公との選挙協力がスムーズに行った候補者。保守党は重複立候補を認めなかった上に、比例代表では議席を獲得できなかった)。

8月 - 夏季研修会に中曽根康弘を講師として招く(野田幹事長は中曽根の愛弟子、当時の中曽根の個人事務所と中曽根が最高顧問たる派閥志帥会事務局と保守党本部は同じ砂防会館内)


2001年

5月 - 友部達夫の失職に伴い繰り上げ当選した金石清禅が入党。

7月29日 - 第19回参議院議員通常選挙で1議席と再び惨敗。

9月18日 - 党首に野田毅が就任。


2002年 

12月25日 - 保守党解党。


歴代保守党常任幹事会・執行部役員表

常任幹事会
党首常任幹事会
幹事長総務会長政務調査会長国会対策
委員長参議院
議員会長最高顧問
扇千景野田毅
加藤六月井上喜一岡島正之扇千景海部俊樹
 〃 〃(廃止) 〃二階俊博 〃 〃
野田毅二階俊博 〃 〃 〃 〃

歴代保守党党首一覧

代党首在任期間
1
扇千景2000年(平成12年)3月 - 2001年(平成13年)9月
2野田毅2001年(平成13年)9月 - 2002年(平成14年)12月

保守党議員一覧(結党時)

衆議院議員

海部俊樹加藤六月野田毅井上一成青山丘中西啓介
二階俊博井上喜一岡島正之安倍基雄中村鋭一小池百合子青木宏之江ア鐵磨西川太一郎西田猛西野陽松浪健四郎吉田幸弘三沢淳

参議院議員

扇千景星野朋市泉信也鶴保庸介月原茂皓入沢肇

保守新党

2002年12月、民主党熊谷弘らの参加を受け入れるために、保守党を解党し、保守新党を新たに結成した[4]

これは公職選挙法上、比例代表選出の議員は議員辞職してからでないと自身が選出された選挙で戦った他の政党に入党できないため、保守党を解党し、改めて新党結成を行うことで民主党の比例区選出議員の移籍を可能にさせた。民主党から加わったのは、熊谷弘[5]佐藤敬夫[5]金子善次郎[5]山谷えり子[5]江ア洋一郎[4]衆議院議員5名(このうち、佐藤、金子、山谷の3名は比例区選出議員)であった。しかし、一度解党という手続きをしたため、2001年参院選の保守党の得票に基づく政党交付金がなくなり、議員数のみによる政党交付金しか受け取れなかった。

なお、同時期に、保守党党首・野田は自民党への単独復党を交渉しており、新党結成の直前にこのことが発覚して党内は混乱した。 野田、小池百合子月原茂皓は保守新党には参加せず、政党助成法の政党要件を満たさない政治団体保守クラブを結成して、数日後に自民党に合流した。

結果として、保守新党は結成時点で、衆議院議員10名・参議院議員4名になり、保守新党の初代代表には熊谷が選ばれた。

民主党離党組に対しての野党から政権に参加したいがために離党、与党入りしたという批判もあり当初目指していた民主党保守系議員の受け皿になる構想は全く進まず、党勢は伸長しなかった。2003年11月の総選挙で代表・熊谷、国会対策委員長・佐藤ら党幹部議員が落選し、衆議院議員が4名に減った。


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