日本の政治家保坂 展人ほさか のぶと
内閣府地方創生推進室より公表された肖像
生年月日 (1955-11-26) 1955年11月26日(68歳)
出生地 日本 宮城県仙台市
出身校東京都立新宿高等学校中途退学(定時制)
千代田区立麹町中学校卒業
前職ジャーナリスト
総務省顧問( 鳩山由紀夫内閣)
所属政党(社会民主党→)
無所属
公式サイト保坂展人 世田谷改革、バージョン・アップヘ!
保坂 展人(ほさか のぶと、1955年〈昭和30年〉11月26日[1] - )は、日本の政治家、教育ジャーナリスト。東京都世田谷区長(第10代)。衆議院議員(3期)、社会民主党副幹事長、総務省顧問(鳩山由紀夫内閣)[2][3][4]等を歴任した[5]。 宮城県仙台市生まれ。祖父保坂貞義は1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)まで、宮城県第二高等女学校(後の宮城県第二女子高等学校、現在の宮城県仙台二華高等学校)第10代校長を務め、在職中に死去している。父親はNHK仙台放送局勤務を経て東京勤務となり、一家で東京に転居している[6]。小学校6年時の1969年12月の第32回衆議院議員総選挙で日本社会党は140から90議席へと惨敗したが、保坂は「日本社会党の敗退」のテーマで自由研究を制作した[7]。 千代田区立麹町小学校から千代田区立麹町中学校へ進学。中学在学中、当時世間を席巻していた学園闘争の影響を受け、「麹町中全共闘」を校内に結成。機関紙「砦」の発行やビラ配り、大学生ML派による集会への参加等、積極的な運動を行っていた。そうした学生運動をしていた事実について中学校での内申書に書かれ、高校受験の面接では面接官からの質問が思想にまつわるものに集中。受験した全日制高校は全て不合格となった。 受験先の全日制高校が不合格であったため、東京都立新宿高等学校の定時制に進学した(のちに中途退学[5])。なお、自身が学生運動をしていた経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害されたとして千代田区と東京都を相手どり、国家賠償法に基づき、損害賠償請求訴訟を起こした。一審・東京地裁は慰謝料請求を認めたが、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、保坂側が敗訴。最高裁判所に上告したが、最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らか」として上告を棄却した(麹町中学校内申書事件)。 その後、教育ジャーナリストに転じ、管理教育の打破を主張。また、若者が自由に出入りできるフリースペース「青生舎」を1976年から1996年まで運営し、ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊。1980年代の反管理教育の潮流を作り、知名度を上げた。教育ジャーナリスト時代、飲酒により退学処分を受け、学校を提訴し係争中だった西原理恵子を取材している。西原とはその後、カット描きの仕事を紹介するなど交友が続いた。また、公文教育研究会が提唱する公文式にも否定的であり、公文式の手法を批判する本も執筆した。 1987年の東京都知事選挙で日本社会党が候補者を決めることができずにいた時、保坂は仲間とともに自主的に土井たか子の擁立運動を勝手に仕掛けた(勝手連)[7]。結局、社会党は元参議院議員の和田静夫を推薦候補として立てるが、この時のやりとりをきっかけに、土井とよく話をするようになった[7]。1989年の参院選には、カメラマンを連れた土井たか子の全国遊説にジャーナリストとして同行取材した[7]。 1996年1月に日本社会党が社会民主党へ党名変更。同年9月23日に村山富市社民党党首から二度目の党首を打診されたことに激怒していると土井から告げられる。2度目の党首就任となることを拒否していた土井と村山の数日間の話し合い全てに参加した[7]。1996年9月27日、衆議院は解散。翌28日、土井は社会民主党の党首に就任し、社会党委員長以来の党首に復帰した。 1996年10月4日、社会民主党は「土井たか子を支える会」メンバーから3人を衆議院選挙の候補として擁立することを決定。記者会見で、ピースボート創立者の辻元清美、市民団体代表の中川智子は比例近畿ブロックから、保坂は比例東京ブロックから出馬することが発表された[8][9]。 それから4日後の10月8日、第41回衆議院議員総選挙が公示。党は辻元を比例の1位、中川を2位に登載し、保坂は東京22区に転じた。10月20日の投開票で、辻元と中川は初当選。保坂は新進党の伊藤達也や旧民主党の山花貞夫らに破れ東京22区では得票数5位で落選したが、重複立候補していた比例東京ブロックで復活し、初当選した。なお小選挙区での得票率 2000年の第42回衆議院議員総選挙では東京6区に国替えし社民党公認で出馬。
来歴
生い立ち
教育ジャーナリストとして
国政進出