保元物語
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『保元物語』・文保本(1318年写)

『保元物語』(ほうげんものがたり)は、保元の乱の顛末を描いた作者不詳の軍記物語である。
概要

保元元年(1156年)に起こった保元の乱を中心に、その前後の事情を和漢混淆文で描く。鳥羽法皇崇徳院への譲位問題より始まり、鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに崇徳院が挙兵。崇徳院と後白河天皇との皇位継承争いを軸に、藤原忠通藤原頼長摂関家の対立、源義朝源為義源氏の対立、平清盛平忠正との平家の対立が加わり、崇徳側の敗退、以降の平治の乱、治承寿永の内乱(治承・寿永の乱)の予兆までを記す。細かい内容は諸本によって差異があるが、何れも源為朝の活躍がメインとなっている。また為朝の父の源為義をはじめ、敗者となった崇徳・頼長らに同情的であり、この敗者への視点が本作品の主題ともいえる。

この『保元物語』に『平治物語』『平家物語』『承久記』を合わせた4作品は「四部之合戦書」(『平家物語勘文録』)と称され、保元から承久にいたる武士の勃興期の戦乱をひと続きのもとして理解する見方が中世からあったことが確認できる。これは、保元の乱を「武者ノ世」のはじまりであるとする『愚管抄』の認識とも一致しており、時代の画期であると考えてられていたことがわかる。『将門記』などの先行する軍記物語はいくばくか存在するものの、『平家物語』などとともに、新たな文学のジャンル形成に寄与した作であるといえるだろう。
作者

古くから何人かの名前が挙がっているが、明らかにはなっていない。近世までの説としては、葉室時長説(『醍醐雑抄』)、中原師梁説(『参考保元物語』)、源瑜説(『旅宿問答』)、公瑜僧正説(『新続古事談』)などがあるが、現在ではどれも根拠は薄弱とされる。なお、このうち「旅宿問答」は『新続古事談』を引用しており、源瑜と公瑜はおなじ人物であるとされる。

なお「旅宿問答」は伊勢貞丈の『安斎随筆』に引用されているもので、現存はしていない。そこでは保元・平治の両物語を二条天皇の時代の作であるとしている。事実とすれば、もっとも古い物語に関する記述である。しかし、この「旅宿問答」では「保元平治、源ノ義賢、義平ト一(ひとつの)乱ヲ作出シ玉フ」とあるところをみると、久寿2年(1155年)の源義賢源義平の争いを含んだ物語のことを述べているらしい。しかし、この事件に触れた諸本は残されておらず、「旅宿問答」の言う「保元平治」が、本当に『保元』『平治』の物語のことであるのかどうかは、かなり疑わしい。

また、『安斎随筆』自体が江戸時代の作で、信憑性にも乏しい。なによりも、『保元物語』中、古態本である半井本が治承年間の記事を有しており、これが二条天皇の死後のものであることを考えれば、仮に「旅宿問答」の記述が事実であっても、『保元物語』のことを指しているとは思われない。いずれにせよ、これらの諸説は、現在ではほとんど顧みられてはいない。戦後になってからは高橋貞一によって葉室長方説も提出された。

近年では、その制作にかかわって、複数の人、ないしは集団を想定する説が多くなっており、波多野義通を物語のいくつかの伝承者とする安部元雄の説、藤原忠実・頼長父子周辺の人物を想定する原水民樹・砂川博などの説が提出されている。

なお、以下の「成立」でもふれるように『平治物語』と一組のものとして扱われていることが多い。作者が同一であるという説も古くからあり、葉室時長らは『平治物語』の作者にも擬されている。別人物を作者とする説は戦前の藤井信男などに早くみられる。「諸本」の項目にかかわるが、第4類などは内容が対応しており、同一作者を想起させるものがある。一方、『保元物語』では古態と思われる半井本が、『平治物語』では金刀比羅本に近いなど、対応関係にはとぼしく、作者がおなじであるとみることは難しい。すくなくとも、このふたつの物語を同一作者と認定するだけの根拠はないといえる。
成立

『保元物語』の成立に関しては、わかっていることはあまり多くない。「作者」でふれたように治承年間の記事を含むので、それ以降であることだけは動かない。ただ、『愚管抄』に保元の乱についての話が「少々アルトカヤウケタマハレドモ、イマダ見侍ラズ」とあること、また永仁5年(1297年)成立の『普通唱導集』に「平治・保元・平家の物語」が琵琶法師によって語られたことが記されている。これらが、断片的ながら、成立についての材料として挙げられている程度である。

特に前者の『愚管抄』の記述については、このことを根拠のひとつとして永積安明は『愚管抄』成立(1220年)以前に『保元物語』の誕生をみる。しかし、著者である慈円自身が見たことがない、と言っているように、本当に『保元物語』のことを言っているのかどうか、不安視されてもいる。一方では、この『愚管抄』の「少々アル」を論拠に、物語の成立は1220年以降とみる野村八良のような見解もあり、この曖昧な記載から『保元物語』の成立をうかがい知るのは困難であろうと思われる。

また、『平家物語』の異本である『源平盛衰記』の清盛の台詞として、「保元・平治の日記」なるものがみえている。これを『保元』『平治』物語とみる理解もあるが、反対意見も多い。仮にこの「日記」を『保元』『平治』の物語とおなじと認めた場合でも、『平家物語』の古態本である延慶本などにはこの話はなく、本当に清盛生存時の事実を伝えているかどうかはかなり疑問もある。

近年では、『保元物語』現存伝本中、もっとも古態をとどめていると思われる半井本などに、貞応2年(1223年)、ないしは3年の成立である『六代勝事記』の文章が引かれているとする弓削繁の論などによって、承久の乱以降の成立とみる見方もあらわれている。

いずれにせよ、『普通唱導集』以前には、この物語の確実な存在を想定させる史料はなく、成立を承久の乱前後とみるのが通説であるが、確かな証拠は得られていない。
流布

徒然草』という著名な作品に琵琶法師の語りがあったことを記されている『平家物語』と違い、『保元物語』には流布について語る史料はそれほど多くない。すでに「成立」でふれた『普通唱導集』を除けば、花園院の手になる『花園院宸記』の元亨元年(1321年)4月16日の記事に「平治・平家等」の琵琶語りがおこなわれたとあるのを挙げ得る程度である。『保元』とはないが、「平治・平家等」とあるのによれば、おそらくは含んでいるものと思われる。すくなくとも、鎌倉時代も半ばから後期には為朝の武勇譚などが巷間に広まっていたのであろう。
後世への影響

もっとも問題なのは『平治物語』『平家物語』との関係である。しかし、この3つの物語の先後関係については不明な点が多く、影響を述べるのは難しい。しかし、諸本で述べる鎌倉本と延慶本『平家物語』がほぼ同文を採用している箇所があるなど、関係があることは間違いない。また、『平治物語』の悪源太義平と為朝の造形の関係なども注目されるところのではあるが、確かなことはわからない。

ただし、半井本・鎌倉本などの『保元』と延慶本・長門本などの『平家』に崇徳院の怨霊にまつわるほぼ同じ内容の文章が見られ、これは明らかに一方が一方を参考にしたものと考えられる。この崇徳院説話については、類話が『発心集』『古事談』『撰集抄』にもみえており、口頭伝承なども含めて、影響を与えあった可能性が高い。

次に、以下の「史実との関係」にかかわるが、『尊卑分脈』の為義・義朝等の伝記はこの乱についての根本資料である『兵範記』との間に齟齬がみられ、『保元物語』に近い。これは『尊卑分脈』の伝記が物語にしたがって書かれたことを示唆している。また原水民樹によって、『神皇正統録』や『北条記』(『関東合戦記』)などに物語の本文が利用されていることが指摘されている。

特に著名なのは曲亭馬琴の『椿説弓張月』で、これは『保元物語』から為朝のエピソードを中心に取り上げ、増補し、脚色したものである。
内容とあらすじ

ここまで諸本についてふれてきたとおり、『保元物語』は複数の伝本が残されており、内容・話の順序には変更点が多い。これらの内容を整理して、逐一違いを述べていくのはきわめて煩雑となる。そのため、以下では主として後に紹介する現存最古の写本「諸本・第1類」の半井本系統に即して物語の内容についてまとめる。
上巻

物語は鳥羽法皇の治世のことから筆を起こす。この法皇の治世が優れたもので、その時代が素晴らしいものであったことを記す。しかし、そんな法皇にも翳りがみえはじめる。まず、息子の近衛天皇が父に先んじて崩御する。このとき院であった崇徳は自身の息子である重仁親王の即位を期待するが、美福門院の差し金で、即位したのは四宮(後白河天皇)であった。このため、崇徳は深く恨みに思う。

続いて鳥羽法皇も天命にはかなわず、巫女の占いのとおりに世を去る。この法皇の死をきっかけとして、崇徳は皇位を重仁のものとするべく計画を練りはじめ、兄忠通との争いをかかえていた左大臣・藤原頼長も崇徳に加担する。ふたりは自分たちに味方する武士や僧兵を集めはじめる。そんななか、崇徳に味方しようとした源親治が後白河方の平基盛によってとらえられ、また、頼長の依頼によって後白河を調伏しようとした三井寺の僧侶勝尊が捕らえられるなどの事件が相次ぎ、両陣営の緊張は高まっていく。

両陣営は武力衝突に備えて、それぞれ有力な武士を集めはじめる。崇徳側に集まったのは源為義と、為朝らその息子たち。また平家弘平忠正といった人々である。このなかでも為義は高齢を理由に従軍を断わり、為朝を大将に推薦するが、最後には藤原教長に説得されて腰をあげる。これにあわせて、宇治にいた頼長も崇徳の御所である白河殿に戻ってくる。

一方、後白河側に集まったのは源義朝・平清盛・源義康源頼政らが集まる。このうち、清盛は重仁親王の乳母子であることから、後白河は遠慮しようとするが、美福門院が鳥羽法皇の遺言と偽って清盛を呼び寄せる。

崇徳側で戦評定がはじめる。頼長は為義に意見を求めるが、為義は為朝を推薦する。為朝は兵力でおとる自分たちが勝つためには、夜襲をかけて火を放ち、天皇を奪い取るしかないと献策するが、頼長は若気のいたりと取り上げない。興福寺僧兵が援軍に来るのを待って持久戦を挑むべきであると結論する。これを聞いて為朝はひとり嘆息する。

天皇側も戦にそなえ、後白河は三種の神器とともに大内裏から東三条に移る。そして、信西に命じて、義朝の意見を求めさせる。義朝は戦に勝つためには今夜にでも仕掛けて、一気に決選を挑むべきだと進言し、信西はこれを許可する。崇徳側が戦の準備をしている間にも、義朝や清盛は兵を動かし、敵が動き出すまえに白河殿を包囲する。
中巻

為義の4男、頼賢は先手をうって出撃し、義朝の軍勢に損害を与える。


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