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捕虜(ほりょ、Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員[1][2]」等定められている[注釈 1]。
第二次世界大戦以前の日本においては、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた[注釈 2][4]。ただし明治以降、「捕虜」という用語も散見されている。日清・日露戦争以降は「捕虜」の頻度も徐々に上がり、史料名でこそ「俘虜」の方が圧倒的に多かったが、本文中では「俘虜」「捕虜」は併用されていた(最初に「捕虜」が登場するの明治時代の史料は、海軍は明治6年、陸軍は明治7年)[5][6]。
なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえることを捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。
近代国際法確立前古代エジプトの捕虜を描いた壁画(紀元前13世紀)捕虜を連れたモンゴル騎兵(14世紀)
近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。
捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求することがよく行われた。ただし李陵(前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。
加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。
また、乱戦の中や負傷時に意に反して敵方に捕縛されるケースなどはともかく、自らの意志により投降することは、すなわち敵方に仕えようとする意思表示とみなされた。そのため多くの社会において投降は利敵行為同様の犯罪とされた。 11世紀に活躍したシャーフィイー学派の法学者で、古典イスラーム国法学の祖とされるマーワルディーは、著書『統治の諸規則』(al-A?k?m al-Sul??niyya wa-l-Wil?y?t al-D?niyya)の「第12章 ファイとガニーマの分配について」においてムスリム軍によって捕虜となった異教徒の兵士の処遇について、法学者の意見が分かれていることを予め説明しており、主要法学派の名祖3人の見解を述べている[7][8][注釈 3]。 シャーフィイー学派の名祖シャーフィイーの説では、イマームまたはその代理としてジハードの指揮を任された人物は、異教徒の捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金の支払いもしくはムスリムの捕虜との交換による釈放、4)身代金なしで釈放の恩恵を与えるか、4つの選択肢を任意で行える、としている。もしこの時イスラームに改宗した場合、死罪は課せられず、他の3つの選択肢から選ばれる。 マーリク学派の名祖マーリク・イブン・アナスの説では、同じく捕虜の処遇として、1)殺害、2)奴隷化、3)身代金ではなくムスリムの捕虜との交換、の3つの内から選ばねばならず、恩赦は認められない、としている。
イスラーム
『統治の諸規則』にみられる各法学派の見解