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しゅんどう こうじ
俊藤 浩滋
本名俊藤 博(しゅんどう ひろし)
生年月日 (1916-11-27) 1916年11月27日
没年月日 (2001-10-12) 2001年10月12日(84歳没)
出生地 日本・兵庫県神戸市長田区
国籍 日本
民族日本人
職業プロデューサー
ジャンル映画・テレビドラマ
活動期間1960年 - 2001年
配偶者上羽秀
著名な家族富司純子(娘)
寺島しのぶ(孫)
五代目 尾上菊之助(孫)
主な作品
『博徒シリーズ』
『日本侠客伝シリーズ』
『昭和残侠伝シリーズ』
『緋牡丹博徒シリーズ』
俊藤 浩滋(しゅんどう こうじ、1916年11月27日 - 2001年10月12日)は、日本の映画・テレビドラマのプロデューサー。本名:俊藤 博(しゅんどう ひろし)。神戸市長田区出身。
女優の富司純子は娘。孫に女優の寺島しのぶ、歌舞伎俳優の五代目 尾上菊之助がいる。上羽秀は後妻。 夜間の神戸市立第二神港商業学校卒業。山口組最高幹部であった菅谷政雄とは同郷の幼馴染で、親友であった。太平洋戦争時には徴兵や軍需工場への動員で過ごすが、御影町の五島組(ごしまくみ)の賭場に通うなかで、大野福次郎(1900年 - 1953年)と出会った。大野は旧姓を五島といい大野家に養子となったが、兄弟は男だけの9人兄弟で長男の五島清吉を含め4人がヤクザとなった家系である。大野は、御影町の旧家の出身で全国の博徒や右翼と交際した旦那やくざの嘉納健治の子分となり、山形の下に「丁」のヤマチョウの代紋を継承した五島組を興し沿岸荷役のほとんどを独占した。戦時中は嘉納と親交のあった岩田愛之助の紹介で上海に進出した。戦後は山口組、本多会と並ぶ神戸の御三家としてあらゆる資金源を開拓した[1]。俊藤は五島組の興行を手伝っていたとされる[2]。このため東映内部においても「あのひとは玄人上がり」という声が残っている。 結婚していたが別居し、1948年、当時松竹の経営人の一人である白井信夫に身受けされていた上羽秀(後にバー「おそめ」のママとなり、小説・映画『夜の蝶』のモデル)と出会い、同居するようになった[3]。大佛次郎・川端康成・小津安二郎・白洲次郎・川口松太郎などが贔屓して集まる「おそめ」にも顔を出すことで、この夜の社会からマキノ雅弘の映画撮影の手伝いや、巨人監督を辞めた水原茂の東映フライヤーズ監督招聘などで、東映社長の大川博や岡田茂と縁を深めていった[4][5][6]。1960年には、京都の御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンスホールやナイトクラブを経営した[7]。 同年、実質東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂に[8][9]「俺をプロデューサーにしてくれないか」と頼み[10][11][12]岡田からの依頼で鶴田浩二の東宝からの引き抜きに成功したことで[6][11][13]東映で鶴田のマネージャー兼プロデューサー見習いを始めることとなる[6]。1962年、まだ名前はクレジットされていないが、『アイ・ジョージ物語 太陽の子』を初プロデュース。1964年の『大笑い殿さま道中』より企画者の一人として名前が記されるようになった。同年、東映京都撮影所所長に復帰した岡田が任侠映画路線に本腰を入れるための先兵として本格的に任侠映画のプロデューサーとなる[5][14]。それまでプロデュースした映画で分かるように、俊藤には任侠映画という発想は全くなかった。岡田が時代劇から容易に転用できる任侠映画の制作を着想し、岡田「あんたの体験を写真にしてもらいたい」、俊藤「馬鹿言え。わしはヤクザやないで」、岡田「不良性感度の強いもの、濃いいもんを作って欲しいんや。テレビの中に絶対出てこんもんや。博打場、鉄火場、いつもドスを懐に忍ばせているような世界や」、俊藤「やれいうんなら、ほんなもんすぐでけるで。責任は取らへんど」、岡田「責任はわしが取る。あんた作るだけや」というようなやりとりがなされた[15]。東映任侠映画路線の生みの親は岡田であり俊藤ではない[16]。映画のことをろくに知らない俊藤に岡田が腹心の吉田達プロデューサーに「俊藤が映画をやりてえっていうから、教えてやれ」と命令し、俊藤は東映で仕事を始めた[17]。俊藤も岡田にプロデューサーとしての才能を見出された人物である[17]。鶴田浩二主演の『博徒』や高倉健主演『日本侠客伝』が大ヒットしたことで頭角を現す[18]。
来歴