俄_浪華遊侠伝
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『俄 浪華遊侠伝』(にわか なにわゆうきょうでん)は、司馬遼太郎歴史小説幕末?客明石屋万吉を主人公に、主に大坂を舞台に庶民からの視線で幕末史を描く。

1965年(昭和40年)5月から1966年(昭和41年)4月まで「報知新聞」紙上で連載された。
概要

生涯大阪人であった司馬遼太郎は、直木賞を受賞した1960年の随想で「当分のあいだは自分が飽いてしまうまで、大阪者の野放図な合理主義精神が、封建のジャングルのなかでどう反応するかを、面白おかしく書いてゆきたいと思っている」(大阪バカ)としており、初期作品のなかには大坂ものがいくつか見受けられる。人口が武士と町人では後者が圧倒的に多い「町人の共和国」の大坂を舞台にした小説である。

幕末・近代の短編の一つである『侠客万助珍談』(1964年)も維新前後の浪花を舞台にしているが、これが長編の『俄 浪華遊侠伝』につながった。タイトルの『俄』は、舞台ではなく路上で感情を素朴に表現する即興喜劇、寸劇である。司馬は小説のなかで晩年の主人公に、我人生は一場ののようなもの、と語らせた。大阪(大阪人)について愛憎半ばする己の姿を語った司馬だが、その上でこの風土を芝居にする場合は大阪仁輪加がぴったりした形式だと発言している。

主人公の明石屋万吉はやくざ者であり、実在した人物である。斯界に詳しい青山光二は、万吉は会津の小鉄や難波の福と並び、幕末明治における上方きっての大親分としている(『ヤクザの世界』『闘いの構図』)。これは藤田五郎が『任侠百年史』において記述する内容においても同じである。同時に、大阪の消防組織をまとめたり、少年や老人、身体が不自由な人のための授産施設を運営した業績は『大阪人物辞典』のなかでも紹介されている。『俄』では堺事件、千日前南鏡園の首塚騒動、難波の福の釈放、選挙大干渉に因る八尾の大乱闘に万吉が登場するが、前述の『任侠百年史』は当時の資料や証言から万吉が登場しない、もしくは別に関わる見方も明示している。

司馬の祖父が明治初期に大阪[注 1]でこの万吉が建てた家を買って餅屋を営んでいたことから、かねてより万吉という人物に親近感を持ち、本作を親しみを込めて書いたという[1]
あらすじ

天保年間の冬。船場平野町筋の茨木屋で丁稚奉公をしていた万吉(11歳)が父の出奔を知るところから物語は始まる。元隠密の成れの果てに浪人となった父の明井采女は貧乏に堪えられず逃げだして、北野村に残された母と妹は数日前から食べていないという。ふたりのもとに向かった万吉は俺が銭を稼ぐと約束した。まだ算段は立てられないが覚悟は固まり、自分が悪事を働いても家族を巻き込まないため無宿人になった。万吉は曽根崎村の露天神社で子供博奕の輪を押しのけ、真ん中にある小銭の山に被さると「この銭、貰ろた」と叫ぶ。頭の皮が破れるほど殴られるが掴んだカネを離さず336文を得た。気持ちは大きいが生身の身体に痛みはこたえ、曽根崎と堂島の間を流れていた曽根崎川で独り泣いていたとき芸者の小左門が見つけて拾っていく。男であれば好意に甘えられないと、太融寺門前の駄菓子屋を木賃宿代わりに近郷で賭場荒しを続けた。しかし、一つの知恵で世間が渡れるほど甘くはなく行き詰まった(「北野の雪」)。

生きるためには才覚が必要だと教訓を得た万吉は今度は博奕の胴をとるがイカサマであった。駄菓子屋のオバンたちには母のいる家へ銭を投げ込んでもらった。心配した小左門が采女の弟が具足奉行として札の辻(上本町)にいるため会ったらどうかと勧めたが、万吉は大人の世話にはならないと断った。無宿人となってから一年以上が過ぎ投げ込まれた銭は72両になった。母親は盗みをして稼いだと考えて手を着けなかったが、秘密にできず喋ったところ噂は曽根崎、天満にまで広がり目明しの鼬松の耳に入った。町会所で殴られるがカネの出所は喋らないため証人が呼ばれるが、皆が庶民ゆえに浅知恵を働かし逆にゴタゴタして捗らない。詳しく調べた結果、賭場荒しが明らかになる。法理からすれば博奕は違法、しかし博奕を荒しても罪の形は成せない。処分は無いが北野村庄屋の預りになった。これは現在の少年監獄に相当した。(「才覚」)

成長した万吉(15歳)は芋畑の広がる太融寺門前に家を構え極道屋となったが家宰は駄菓子屋のオバンである。命知らずの勇名を馳せる万吉に大坂の米問屋から堂島の米会所で開かれる相場を潰すように頼みが持ち込まれる。派手に殴り込んだ万吉は本町橋詰の西町奉行所に引っ張られると掛である与力の内山彦次郎より拷問にあうが海老責めにも口を割らずに最後まで耐え抜き放免された。満足に立つことも出来ない身体の万吉を待っていたのは米価高騰で苦しんでいた庶民からの喝采だった。おれもいっぱしの人間になったと胸に込み上げるものがある。遊び人たちから人気の高まる万吉(25歳)は、小左門の紹介で侍からの招きに応じた。西寺町を過ぎ堀川の船に乗り、更に乗り換えると町奉行の久須美祐雋が待っていた。大川の屋形船の上で貴人から頭を下げられた万吉は命がけの仕事に乗り出す。幕府より大坂へ密輸の探索に送り込まれた隠密を捜す手伝いのため牢に入り、隠密の野々山平兵衛が殺される寸前で救出に成功した。この翌年(文久3年(1863年)で万吉は26歳の設定)、野々山平兵衛から密輸の探索に協力を求められ、玉造の月江寺に誘いだして口縄坂で刺客に襲われるが船場伏見町の唐物商と天満与力の逮捕に貢献した(「月江寺」)。

黒船来航から始まった幕末の騒乱は、年を経るごとに混迷の度合いを深めていった。天子を頂く京都では「尊皇攘夷」を叫ぶ過激志士たちが市中を練り歩いて刃傷沙汰が横行し、市井の治安は乱れに乱れた。幕府は会津松平家京都守護職に任命して京の治安回復に当たらせ、同様に治安の乱れが及んだ大坂も諸大名に命じて警備を受け持たせた。播州小野藩の小大名一柳家は大坂西部一帯の警備を命ぜられるが、わずか一万石の分限を超える大任に困じ果てた末に万吉の存在に目をつける。


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