便利堂
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株式会社便利堂
BENRIDO,INC.
種類株式会社
本社所在地 日本
604-0093
京都府京都市中京区新町通竹屋町下ル弁財天町302番地
設立1887年明治20年)
業種その他製品
法人番号1130001022475
事業内容印刷・出版
代表者鈴木巧(代表取締役社長
外部リンク ⇒http://www.benrido.co.jp/
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株式会社便利堂(べんりどう)は、京都府京都市中京区新町通竹屋町下る弁財天町にある老舗の美術印刷・出版会社。古美術の複製品制作、美術書の図版印刷や美術館博物館の蔵品図録、絵はがき制作で特に知られる。19世紀にフランスで生まれたコロタイプ印刷を行う、世界で唯一の工房を有する。
歴史
第一期:中村弥二郎時代 明治20年(1887)?明治34年(1901)

「便利堂書店」とも称し、明治20年(1887)に中村弥二郎(中村家二男のちに中村有楽とも名乗る)によって創業[1]
中村家は京都御所にもお出入りの叶った京都の屋で、茶器酒器などを製造していたが、明治維新後の東京奠都により家業が衰退し何か新しい生活の手段を求めなければならなかった。そこで長男の弥左衛門は親戚の呉服商に預けられ修行することとなったが、残った二男の弥二郎は企画性とユーモアに富む人物で、弱冠15歳で貸本売本店「便利堂」を始めた[2]
この便利堂という屋号は創業当時から用いられているもので弥二郎が名付けたと考えられる。明治22年頃の広告によると、新刊本・古本の販売、貸本、雑誌・新聞の販売配達(京都最初の大阪毎日新聞販売所[3])といった書店業務、さらに広告やデザインまでも業務としていたことが確認できる。屋号として用いた「便利」という言葉には、明治の文明開化における様々な新規的事業を一手に引き受ける、従来にない文化的ビジネスを目指す弥二郎の強い思いが込められているといえる[2]
翌年には出版業にも着手、現在存在が確認できる最初の出版物は、明治22年(1889)2月に刊行された滑稽雑誌『文藝倶楽部』である。久保田米遷富岡鉄斎望月玉泉らが表紙絵を寄稿しているが、その後の便利堂の歴史の中で最も関りが深い画家のひとりである鉄斎との最初の出会いと考えられる。また、これ以降の出版物をみると「滑稽趣味」「雑誌志向」は弥二郎にとって大きな柱であると思われる[4]
この弥二郎時代の出版で特筆されるのは、内村鑑三の代表的著述『後世への最大遺物』である。キリスト教思想家として知られる内村鑑三は、明治24年(1891)不敬事件で東京を追われ各地を流遇した後、明治28年(1895)から一年ほどを中村家の離れで暮らし、弥二郎から毎月20円の援助を受けた。この縁から明治30年(1897)に『後世への最大の遺物』が便利堂から出版された[5][6]
創業者弥二郎は、これら創業期の事業である書店・出版業経営の難しさや、この内村との出会いがが精神的契機となったのか、弥二郎が目指す出版人の野心を満足させるべく、長男の弥左衛門に便利堂の事業を譲り、東京へと活動の場を移すこととなる[5]
第二期:中村弥左衛門時代 明治34年(1901)?大正14年(1925)

弥二郎から事業を受け継いだ弥左衛門は、現在に至る便利堂の基礎を整えたと言える。
まず第一には、明治38年(1905)にコロタイプ印刷所を開設したことである。コロタイプは明治21年に
小川一眞によって日本にもたらされた精緻な印刷技法である。現在も刊行の続く美術雑誌『國華』の図版印刷に採用され、高品質で美しいコロタイプは、絵葉書や美術図書の口絵などに広く利用された。弥左衛門は、コロタイプ印刷所を開設するにあたり光村印刷所から技術者である内藤雄太郎を招聘して稼働を始める[7]
第二は、絵葉書の企画制作である。日本では明治34年(1901)に私製はがきが解禁されたのを機にヨーロッパでの絵葉書ブームが伝来、明治38年(1905)に最高潮となるのだが[8]、便利堂が発行した最初の絵葉書は明治35年(1902)の『帰雁来燕』である[9]。明治38年(1905)からは多様な絵葉書を企画発行し、明治40年(1907)には書店を絵葉書店(「便利堂書店」から「便利堂絵葉書店」)へと変えて[10]絵葉書ブームの中でその知名度を高めた。その当時の様子は、大阪毎日新聞の記者である大江素天の述懐をみると「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押しかけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(写真太平記)[9]と人気店であったことが分かる。
そして第三には、他所から絵葉書や図録制作を受注するビジネスを確立させたことである。絵葉書受注制作の第一号は、今日の記録で正確に判明しているものとして清水寺であり、明治40年(1907)のことである[11]。そしてそれに続き法隆寺萬福寺からの注文を受けて制作しており[7]、また博物館図録としては、大正5年(1916)に京都帝室博物館(現京都国立博物館)から『古美術図録・全四冊』の注文を得ている[7]。絵葉書ブームが下火となると共に、古美術の撮影・印刷という今日にもつながるメインストリームが始まったことがわかる[12]
第三期:田中伝三郎時代 大正14年(1925)?昭和5年(1930)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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